じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

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[今日の写真] 私の書斎。毎日ここでWeb日記を書いている。冬季は観葉植物の避難場所でもある。





12月25日(火)

【ちょっと思ったこと】

ワハーン

 ネイチュアリングスペシャル「世界初取材“地球最後の秘境”ワハーン」(出演:鶴田真由)を視た。ワハーンというのは中国、パキスタン、タジキスタンと国境を接するアフガニスタン北東部に細長く伸びる回廊のことで、これまで外国のテレビが入ったことはないという。中国からアフガンへの入国が禁じられているため、テレビでは、カシュガルからカラコルムハイウェイでクンジェラブ峠を越え、パキスタンのパスー村に達し、ここから西方向にイルシャード峠(4930m)を越えてサルハッドに入るというコースを辿った。

 カシュガルからのパキスタンに通じるカラコルムハイウェイ(チャイナロード)沿いの景色は、昨年イスラマバードからカシュガルまで旅行した時にと寸分違わない景色だった。ごく短時間であったが、カラクリ湖からのムスターグ・アタも映し出された。あのあたりは、私にとっては、人生最高と言っても過言ではない景色であった。

 今回の取材は私の旅行からほぼ1年後、今年の7月〜8月であったというが、9月中旬以降だったら大変なことになっていただろう。あの地域の人たちは、自然と共生しながら何百年にもわたって同じ生活を続けている。それをぶちこわしたのは、かつてのロシアとインド(英国)の領土争い、旧ソ連のアフガン侵攻、そして、内戦、米軍による空爆である。現地で生活している人々にとっては、いずれも、全く存在に値しない勢力と言えるだろう。
【思ったこと】
_11225(火)[心理]「事例」はどう扱うべきか(その1)

 このところ、卒論や修論で、少数の事例を扱う研究が増えてきた。従来の群間比較型の実験や、大規模な質問紙調査では限界がある。いくつかのケースを徹底的に調べたほうが本質に迫れるという考えが出てくるのは当然の成り行きである。

 その際に学生からしばしば出されるのが、「何人ぐらい調べたらいいですか」という質問である。しかし、少数事例の研究は標本調査ではない。一定人数が揃えばOKということではなく、むしろ、「どういう人を対象にしたらよいか」が重要なカギとなる。

 対象の選び方は問題の性質によっても変わってくる。

 例えば、「海岸にはどういう生物が棲んでいるか」を調べるとしよう。千葉県・九十九里浜のように長大な砂浜が続くような海岸であれば、任意の1箇所を1m四方に区切ってどういう生物が生息しているのかを徹底的に調べればよい。それだけで海岸全体の様子がほぼ分かる。

 これに対して、複雑に海岸が入り組んだ三浦半島周辺の海岸を調べるのであれば、砂浜や岩場、それも激しく波の打ち寄せる場所、潮だまり、波の静かな入り江など、できるだけいろいろな場所を対象とする必要がある。

 人間の事例研究でも同様であり、均質で一般性のある対象を扱う場合は、誰を相手にしても結果は変わらない。反面、多様な現象の全体像を探ろうとする場合には、なるべく質的に異なる人々をくまなく調べていく必要が出てくる。

 このほか、「すべての人は同じ」ということへの反例を提示する目的であるならば、該当する一例だけを詳しく報告すればよい。これは意外性があるので、テレビの特ダネ番組でもよく取り上げられる。

 事件の被害者のように最初から対象が限定されている場合は、全数調査と同じ性格が出てくる。とはいえ、そこで得られた情報を今後の教訓として活かすためには、その事件に固有の特殊要因と、別のケースにもあてはまる一般要因を見分ける必要がある。もっとも一口に「特殊」と言っても、
  • その人だけしか持ち合わせていないような質的な「特殊性」なのか、
  • 誰にでも存在するが、その人だけ閾値が異なっているために生じる「特殊性」なのか
によって扱いは異なってくる。例えば「腹を立てるとすぐ暴力をふるう」という「特殊性」は閾値の低さを示すと考えられるので後者にあたる。後者からは、見かけ上は特殊であっても、「人は閾値が変わるとどういう行動を起こしやすくなるか」、「閾値の変動は何によって規定されるか」というように一般性のある法則性を導き出すことができる。次回に続く。