じぶん更新日記1997年5月6日開設Y.Hasegawa |
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長崎県・長与町・長与ニュータウン近くの田んぼに生えていたレンゲソウ。息子を連れて、このあたりをよく散歩したものだった。 |
【ちょっと思ったこと】
長崎で最も価値のある場所/浦島太郎になった私 前任校でずっとお世話になっていた先生が今年度で定年退官となるので、その祝賀会出席のため長崎まで行ってきた。 祝賀会は18時からではあったが、せっかく長崎に行くのだからぜひここも訪れてみようと思い、朝一番の新幹線に乗り、11時前に浦上駅に到着した。 さて、さっそく向かったのは、平和公園でもグラバー園でもハウステンボスでもない。私にとって長崎で最も価値のある場所は「長与ニュータウン」なのであった。長崎に住んでいたのは1986年から1991年までの5年間にすぎないが、息子が前年に生まれたばかり、娘は長崎の産婦人科でお世話になりながら生まれたということで、我が家にとっても最も忙しく、また想い出の多い時期にあたっていた。 ニュータウン行きの長崎バスを降りてから、まず息子が年少組の時だけ通っていた幼稚園を見に行った。途中の住宅街も幼稚園の建物も昔と殆ど変わらない。振り向くと、3〜4歳だった頃の息子がちょこちょことついてきているような錯覚を起こす。同時にその頃の想い出がよみがえってきた。 次に、赴任当初に1年だけ借りていた借家(2年目からは同じニュータウン内の官舎に引っ越し)の前を通ってみた。ところが、平屋で庭付きの家屋は跡形もなく、敷地は分割されて2階家が二軒建てられていた。それほど古い家ではなかったのだが、けっきょく借り手がつかずに売りに出されたのだろうか。他人の所有物なので残念がる筋合いのものではないが、想い出の場所が1つこの世から消えてしまった。 ![]() ![]() 緑が丘団地から坂を下りていくと、見慣れない商店街があった。いったいどこに来たのだろうか、と思ってしばらく進むうちに、琴尾市場、長与中央市場と書かれた古めかしい看板を見つける。何と、昔、子供たちを背負いながら買い出しに来ていた場所にいつのまにかたどり着いていたのである。露地を曲がると一番交通の激しい十字路に出た。角にあったはずの寿屋長与店は立体駐車場つきの大きなビルに建て替えられ、パチンコ屋になっていた。 長与での驚きはこれにとどまるものではなかった。通勤の時たまに利用したJR長与駅に行ってみると、古めかしい木造駅舎に替わって2階建ての近代的な駅舎が出現。さらに驚いたのは、駅の反対側の山に赤色のへんてこなパイプと鉄橋が見えていた。「中尾城公園」という名前の町営施設ができていたのである。園内にはケーブルカー(モノレール)までできていてビックリ。もっとも、ケーブルカーのレールってどこかで見たことがある。そうそう、みかん山でよく使われている運搬用のレールと似ているのだ。もちろん、人間を運ぶために色々な安全設備が整っているのだろうけれども、あまり場違いに感じないのは、みかん山に囲まれていればこそではないかと思う。 ![]() 岡山に引っ越ししてからまもなく12年目を迎える。今住んでいる場所では時の流れはあっという間に過ぎ去ると同時に、周囲の景色は昔とはあまり変わっていないように思ってしまう。同じ場所では、少しずつの変化に気づかないためかと思う。いっぽう、その地を離れて11年も経つと、すべての変化はいっぺんに訪れる。まさに浦島太郎の心地である。 過去の想い出と重ね合わせてみることのできる景色は、世界中のどんな絶景よりも価値のあるものだと思う。もっとも浦島太郎の話とは1つだけ大きく違っていることがある。それは、玉手箱を開けるまでもなく、私自身も11年間のあいだに年をとり、白髪が増え、老眼になってしまったということ。そして、ちょこちょことついてきた子どもたちは、4月には高2と中2に進学し、もはや一緒には散歩してくれないということだ。 [※3/29追記] [※4/4追記] 11年も経つと、場所の記憶がずいぶんと抜け落ちるものだ。長与と浜口町の間に、浦上水源地、長崎商業、女の都(めのと)団地があったことなどすっかり忘れていた。息子が4〜5歳の頃はスイミングプールに通わせていたものだが、長与の商店街を歩いている時にはそのことを忘れており、その場所にきて初めて記憶がよみがえった。 |