じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

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[今日の写真] 長崎県・長与町・長与ニュータウン近くの田んぼに生えていたレンゲソウ。息子を連れて、このあたりをよく散歩したものだった。





3月28日(木)

【ちょっと思ったこと】

長崎で最も価値のある場所/浦島太郎になった私

 前任校でずっとお世話になっていた先生が今年度で定年退官となるので、その祝賀会出席のため長崎まで行ってきた。

 祝賀会は18時からではあったが、せっかく長崎に行くのだからぜひここも訪れてみようと思い、朝一番の新幹線に乗り、11時前に浦上駅に到着した。

 さて、さっそく向かったのは、平和公園でもグラバー園でもハウステンボスでもない。私にとって長崎で最も価値のある場所は「長与ニュータウン」なのであった。長崎に住んでいたのは1986年から1991年までの5年間にすぎないが、息子が前年に生まれたばかり、娘は長崎の産婦人科でお世話になりながら生まれたということで、我が家にとっても最も忙しく、また想い出の多い時期にあたっていた。

 ニュータウン行きの長崎バスを降りてから、まず息子が年少組の時だけ通っていた幼稚園を見に行った。途中の住宅街も幼稚園の建物も昔と殆ど変わらない。振り向くと、3〜4歳だった頃の息子がちょこちょことついてきているような錯覚を起こす。同時にその頃の想い出がよみがえってきた。

 次に、赴任当初に1年だけ借りていた借家(2年目からは同じニュータウン内の官舎に引っ越し)の前を通ってみた。ところが、平屋で庭付きの家屋は跡形もなく、敷地は分割されて2階家が二軒建てられていた。それほど古い家ではなかったのだが、けっきょく借り手がつかずに売りに出されたのだろうか。他人の所有物なので残念がる筋合いのものではないが、想い出の場所が1つこの世から消えてしまった。

[今日の写真]  喉が渇いてきたので、このニュータウン内唯一のスーパー(正確には地域生協)に飲み物を買いにいったところ、近づくにつれて、あまりにも人の気配が無いことからイヤな予感がしてきた。店の前には車一台もない。定休日にしては乱雑すぎる。変だなあと思って、入口を見ると、なんと昨年9月20日に破産。出資金2300万円余りは返還困難との貼り紙がしてあった(写真左上)。この生協、もともとは三菱崎戸炭坑の職域生協として設立され、閉山後はこのニュータウンの地に本部店舗を構え、組合員2303人、供給高3億5000万円を誇っていたというが、近隣の大型店舗進出と過剰投資、経営の見通しの甘さなどから累積赤字がふくれ、ついに破産申し立てをせざるをえなくなったという。そう言えば、この生協が理事や総代をちゃんと選んでいたかどうか、毎年の収支をちゃんと報告していたかどうか、少なくとも私の記憶には残っていない。

[今日の写真]  引き続いて、洗切小学校への通学路を歩いてみた。長崎にずっと勤めていたとしたら子どもたちが通うことになるはずだった学校である。途中の景色は殆ど変わっていないものの、正面にそびえる稗ノ岳(ひえのだけ)中腹のみかん山が切り崩され、「緑が丘」という団地ができていた(写真右)。他にも、南陽台とニュータウンの間に見慣れない団地があり、その奥には大きな建物がいくつか見えていた。あとで聞いたところ、これが県立シーボルト大学なのだという。とにかく、長与での宅地造成は恐ろしいほどのピッチだ。このご時世に、よくこれだけの家や土地が売れるもんだと思う。




 緑が丘団地から坂を下りていくと、見慣れない商店街があった。いったいどこに来たのだろうか、と思ってしばらく進むうちに、琴尾市場、長与中央市場と書かれた古めかしい看板を見つける。何と、昔、子供たちを背負いながら買い出しに来ていた場所にいつのまにかたどり着いていたのである。露地を曲がると一番交通の激しい十字路に出た。角にあったはずの寿屋長与店は立体駐車場つきの大きなビルに建て替えられ、パチンコ屋になっていた。

 長与での驚きはこれにとどまるものではなかった。通勤の時たまに利用したJR長与駅に行ってみると、古めかしい木造駅舎に替わって2階建ての近代的な駅舎が出現。さらに驚いたのは、駅の反対側の山に赤色のへんてこなパイプと鉄橋が見えていた。「中尾城公園」という名前の町営施設ができていたのである。園内にはケーブルカー(モノレール)までできていてビックリ。もっとも、ケーブルカーのレールってどこかで見たことがある。そうそう、みかん山でよく使われている運搬用のレールと似ているのだ。もちろん、人間を運ぶために色々な安全設備が整っているのだろうけれども、あまり場違いに感じないのは、みかん山に囲まれていればこそではないかと思う。

[今日の写真]  JR長与駅に戻ってからはディーゼルカーで浦上まで。駅舎もホームも昔の面影はゼンゼンなかったが、よく見ると、私が通勤していた頃のホームはちゃんとその下に活きていたのであった(写真左)。こういう古いものを見つけるとホットする。



 岡山に引っ越ししてからまもなく12年目を迎える。今住んでいる場所では時の流れはあっという間に過ぎ去ると同時に、周囲の景色は昔とはあまり変わっていないように思ってしまう。同じ場所では、少しずつの変化に気づかないためかと思う。いっぽう、その地を離れて11年も経つと、すべての変化はいっぺんに訪れる。まさに浦島太郎の心地である。

 過去の想い出と重ね合わせてみることのできる景色は、世界中のどんな絶景よりも価値のあるものだと思う。もっとも浦島太郎の話とは1つだけ大きく違っていることがある。それは、玉手箱を開けるまでもなく、私自身も11年間のあいだに年をとり、白髪が増え、老眼になってしまったということ。そして、ちょこちょことついてきた子どもたちは、4月には高2と中2に進学し、もはや一緒には散歩してくれないということだ。

3/29追記]
4/4追記]
11年も経つと、場所の記憶がずいぶんと抜け落ちるものだ。長与と浜口町の間に、浦上水源地、長崎商業、女の都(めのと)団地があったことなどすっかり忘れていた。息子が4〜5歳の頃はスイミングプールに通わせていたものだが、長与の商店街を歩いている時にはそのことを忘れており、その場所にきて初めて記憶がよみがえった。