じぶん更新日記1997年5月6日開設Y.Hasegawa |
【ちょっと思ったこと】
事実解明と外交交渉の違い 中国・藩陽の日本総領事館事件で、外務省は13日にも調査結果を公表、中国側に反論する方針だという。しかし、その内容に新たな情報が含まれているとは期待できない。現地調査にあたっている小野正昭・領事移住部長は記者団に対して「館員らの聞き取りに予想以上の時間がかかっている」と答えた(5/13朝日新聞記事)というが、早い話、中国側警官の立ち入りや連行に同意を与えていたのかどうか、携帯電話で上司に連絡をとったかどうかなどということは5分間もあれば確認できるはずだ。 12日までの報道の中で、日本側は「中国側の立ち入りや連行に同意を与えた事実は無い」と反論しているというが、これは、「中国側の立ち入りを拒否した」という能動的行為とは異なる。前者を覆すためには中国側に実証責任が、また後者を主張するには日本側に実証責任が出てくる。仮に同意があったとしても口約束である限りは、肯定も否定もどうにでもなってしまう。もはや、「事実を明らかにする調査」ではなく「事実のどの部分は隠せるかを確認した上での外交的な交渉」の段階に入ったと受けとめるべきだろう。 5/10の日記でもふれたが、当事者としては、おそらく、「亡命未遂事件があったが、館外で取り押さえられた」ぐらいで処理したかったのだろう。ところが、支援団体撮影[追記:報道機関撮影?]のビデオ映像が公開されたために大慌てとなった。いま行われているのは真相解明の調査なんかじゃない。公開された事実に矛盾しない範囲で、両国の対面をどう保つかという、つじつま合わせの交渉なのである。調査責任者から「今後さらに調査してみなければ確認できない」という発言があったとしたら、それは「今後さらに交渉してみなければ、事実として公開したほうがよいのか、それとも事実未確認として隠したほうがよいのか判断できない」というように「翻訳」して受けとめるべきである。 ここで留意しなければならないのは、亡命を求めたとされる5人をどう扱うのかは交渉では二次的な問題として処理されるということだ。現場に居合わせた当事者たちにとっては、自分たちの対応に落ち度がないとしていかに保身をはかるかが最大の課題となる。日本政府としては、職員の個人責任に帰すべき事実が内部的に明らかになったとしても、危機管理指導責任を問われるような事態はできるかぎり避けようとするだろう。 おそらく、映像を公開した支援団体との水面下の交渉も行われているに違いない。日本側職員が現地警官と握手しているシーンが万が一にも存在していたら、「連行に同意を与えた事実は無かった」という主張は致命的なダメージを受けるであろう。いっぽう支援団体の側は、亡命という目的さえ達成すれば、それ以上に映像を公開するメリットは全くない。そういうものが仮にあったとしても、今後の支援活動が妨害された時の切り札として残しておくほうが得策である。今後、日本、中国、支援団体3者間、さらには特ダネを狙うマスコミ、野党勢力、第三国の間で、それぞれ何らかの取引が行われていくはずだ。 もはやこの問題は外交交渉の課題となってしまった。真実が100%明らかにされるのは、おそらく半世紀後になるのだろう。いま我々にできるのは「主権侵害があれば抗議すること」、「対応に落ち度があれば、その責任の所在を明確にすること」、「拘束された5人が非人道的な扱いを受けないように監視すること」といったところだろうか。 |
【思ったこと】 _20512(日)[心理]「昆虫セラピー」はなぜ存在しない? 少し前のことになるが、某説明会に妻が出席することになり、車で送っていったことがあった。遠方であったので私は駐車場で待機、その時間に本を一冊読もうと思っていたのだが、とりあえずデジカメで周囲の写真を撮ろうと外に出てみたところ、松やツツジの枝に居たいろいろな昆虫に興味をひかれ、それらを眺めて時間をすごすことになった。説明会は2時間以上に長引いたのだが、全く飽きることがない。昆虫の世界はまことに面白いものである。 写真の1番の虫たち(キバラヘリカメムシの幼虫?)は、なわばり争いをしているのか、何かの情報を伝えているのかよく分からなかったが、何分たっても大した動きは無い。2番の虫はさらに動きに乏しく、触ってみて初めて虫だと分かったほどだ。3.は産卵管が長いので、オナガバチの一種、4.はたぶんヒメヒラタアブ。 ときおりヒヨドリが鳴く程度の静かな林であったが、やはり生存競争は厳しい。5番の虫(クモヘリカメムシかホソヘリカメムシの仲間?)などは、この写真を撮った後、蜘蛛の巣にひっかかって短い一生を終えてしまった。 別企画の昭和30年代の写真日記にも時たま写っているように、幼稚園入園前の頃は私はもっぱら広い庭で土いじりをしながら遊んでいた。園芸の趣味はおそらくその頃のインプリンティングに違いないが、じつはあの頃は、花よりも虫に興味があったのではないかと思うところもある。じっさい、巣から出てきた蟻がどこまで移動するのか後を追ってみたり、アゲハやビロウドスズメのイモムシを育てたこともあった。もし、小中学校の頃に昆虫に詳しい先生が一人でもおられたら、私の進路は大きく変わっていたかもしれないと思う(残念なことに、小学校から高校卒業までの間、生物系の先生が担任になることは一度も無かった)。 いずれ引退して、庭付きの小さな家に住むことにでもなったら、グローバル化された、ありふれた花苗を寄せ植えするよりは、むしろ、樹木や多年草をいっぱい植えて、そこに集まってくる昆虫を観察して一日を過ごしたほうが老後の生きがいになるのではないかと思うことがある。昆虫は植物以上に「生」を感じさせるものだ。 ところで、世の中には、園芸療法や動物介在療法があるのに「昆虫療法」はなぜ存在しないのだろう。少なくともネットで検索する限りは、それを推進する団体は見当たらない。自然とふれあい花を育てることが園芸療法になるのだったら、昆虫を観察したり、イモムシを育てて蝶や蛾として送り出すことも同じように生きがいになるはずだと思うのだが、どこが違うのだろうか。この違いを明らかにすることは、おそらく、「園芸療法」の全人的な効用を明らかにすることにもつながるはずだ。いまの時点で私が考えている違いは以下の通りだが、まだ思いつき程度にすぎない。これはと思うものがあれば、お互いを更新する掲示板にお寄せいただければ幸いです(なお、書き込まれた内容は、事前連絡なしに今後の執筆で引用させていただきますので、あらかじめご了承ください)。
[5/13追記] 芋虫および、昆虫と人間との関係についての記述は1999年3月5日の日記にもあります。よろしかったら参考にしてください。 |