じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
岡大構内の用水沿いにひっそりと咲くクチナシ。この用水には旭川からたくさんの水性生物が移動してくる。きょうも夕刻、近くの子どもたちがスジエビをいっぱい採っていた。 |
【ちょっと思ったこと】
我が家のチャンネル争い アパート住まいの我が家にはテレビは一台しか無い。これをめぐって家族4人でチャンネル争いが絶えないのだが、
息子は学校から帰るとグースカ寝てしまったあまりテレビを視たがらないのだが、週に1度だけ、何よりも心待ちにしている番組がある。それはなっ、なんと(←クリックすると画面下部にジャンプ) |
【思ったこと】 _20705(金)[教育]授業中の教員は輝いていた 学部のFD専門委員会主導のもとに、今年度から、一部の授業の参観を制度的に実施することになった。参観できるのは同じ学部内の教員。参観者は、感想や気づいた点などを授業後に担当者に伝えることになっている。 水曜日の私自身の授業[7/3の日記参照]に引き続いて、金曜日には、 ●思想文化論I(日本倫理思想史概説):日本古代中世の思想 ●演劇学特講:狂言の研究 という2つの科目が公開され、私も聴講した。 授業参観というのは教授法開発を目的に行われるものであって、教員向けの教養講座ではない。しかし、学生の授業態度、シラバスとの対応、教材の活用等についての意見は、あくまで担当者個人に伝えることになっているのでWeb日記には書けない。ここでは、そうした目的であったとお断りした上で、私自身が学んだ内容を要約することにしたい。 まず、思想文化論の授業では、仏教伝来後、神道思想がどのように変遷したかが論じられた。私のメモによれば、
ひとくちに神道と言っても、「飢饉や災害は神の祟りであって、これを鎮めるには仏法が必要」とされた時代から、「日本の神が根本で、仏教は派生」とされた時代まで、いろいろな思想の変遷のあることが理解できた。 次に、午後に行われた「演劇学特講:狂言の研究」では、狂言と西洋のリアリズム演劇の違いが論じられた。西洋の演劇では、俳優は舞台の上で登場人物になりきり、感情移入が行われる。これに対して、狂言では、意図的に、登場人物と狂言師本人が並列させられる。時には、狂言師の固有名詞で呼ばれることもあるし、効果音を口で言うなどのように、登場人物が本来ゼッタイにしないようなことまで演じている。ブレヒトによれば、これは俳優が登場人物との絆を断ち切ることを意味している。 西洋のリアリズム演劇と異なり狂言は、登場人物への感情移入には基づかない。では何に基づいているのかと言えば、それは日本の伝統に支えられた「型」である。「型」はなんと言ってもその美しさにある。吉本喜劇は笑いを誘うかもしれないが、美しいとは言えない。これに対して、狂言では、太郎冠者が酔っぱらっている場面、さらには酒を盗む場面さえ、「型」により美しく見せる。狂言でかぶられる仮面、例えば蚊を演じる仮面は決してリアルではない。単に、普通の人間ではないことを示すサインのようなものだ。それゆえ、想像力を能動的に働かせない限りは狂言は成立しない。TVドラマのように、現場がそのまま描かれているのとは違う。「想像力のたわむれ」と言ったほうがよいかもしれない。 ところで、ブレヒトによれば、上記の特徴は、狂言固有というより、東洋の演劇(京劇など)に共通して見られるものらしい。では、狂言固有の特徴は何かと言えば、それは能とセットで演じられることに重要な意味がある。能の場合、俳優と登場人物の関係は狂言以上に希薄になっているのだそうだ。例えば、能では舞台の右手に地謡が入るが、登場人物の声は、俳優ではなくて地謡が語る場合さえあるという。さらには俳優自身が登場人物の行為を説明することもある。要するに能では、舞台上には登場人物は居ない。俳優の身体と地謡の声から観客が再構成するものなのだという。 能というのは、アチラの世界(亡霊の世界)を描くという点でも複雑でシンドイ。その緊張感をほぐすのが狂言であり、そこに狂言固有の特徴がある。 以上が、私のメモに基づく授業内容の要約。狂言が観客の能動的な想像力によって支えられていることについては、かつて中学の国語の時間になるほどと思ったことがあった。それ以来、狂言に関心を持つようになり、出身大学で行われた能楽鑑賞会にも何度か足を運んだが、能のほうは退屈で、途中で帰ってしまったこともあった。なるほど、退屈に感じたのは、「再構成」がうまくできなかったためなのか、と納得できた。 アニメ、特写、CGアニメ..、その一方でバーチャルなビデオゲームというように、現代はもっぱら、視覚的なリアリティが好まれる時代になってしまったが、このあたりでもう一度、想像力に支えられた演劇、「お芝居であることを明確にしたお芝居」の意味を再評価してみてもよいのではないかと思った。 なお、こちらの案内によれば、この夏の行動分析学会で、上田邦義先生(日本大学大学院教授)による「シェイクスピアと能と行動分析学」についての特別講演があるという。「行動分析学と関連する「個と環境」について、実演とビデオを交えて講演なさいます。」ということなので大いに期待したい。 ということで、本日の2コマ分の公開授業のまとめは終わり。冒頭にも述べたように、教授法開発に関わる意見は、担当者個人に伝える取り決めになっているのでここには書かない。もっとも、どちらの授業も、非常に分かりやすいもので、注意深く聴講していれば、私のような飛び入り受講生でもじゅうぶんに理解できる内容だった。学生の中には、居眠りをしていたり、携帯のボタンをカチャカチャと打ち込んでいる者も複数見られたが、せっかくの90分、まことに勿体ないことであると思った。 教授法開発と言っても、小学生や中学生を相手にするわけではない。大学の授業では、教え方のスキルに注意を払うよりは、教える内容が勝負になると思う。よく批判されるような「講義ノート棒読み型」、「雑談型」の授業がある場合は改善が必要であるとしても、その一方で、学生側の学ぶ姿勢が強く問われることも確かだと思う。もちろんそれは「学ぶ意欲を高める」という抽象論では解決しない。教員側のほうから「学びたい対象」の間口を広げ、それらに対する学生側の能動的な勉学行動を強化していくことが基本になると思う。 もう1つ、強く受けた印象として、授業担当者がとても生き生きと輝いていたことだった。やはり大学教員が最高に輝くのは、研究に取り組んでいる時か、授業を行っている最中であろう。日頃、中期的な展望から実務的な問題まで議論をたたかわせることの多い教員どうしではあるが、それぞれの人が最も輝いている授業風景をお互いに参観していくことは、教授法のスキルを学ぶこと以上に、何よりも、教員として互いに尊敬しあうという点で効果があると思った。今後は全学の委員会でも取り上げ、教養科目や外国語教育科目においも、制度的な授業参観が実現できるように働きかけていきたいと思っている。 |
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あたしンちだったのだ。私にはどこが面白いのかちっとも分からないのだが、息子に言わせると、「面白い」というより「和む」番組なのだそうだ。 |