じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

7月のインデックスへ戻る
最新版へ戻る

[今日の写真] アパート階段横の桔梗。例によって2種類のデジカメで比較してみた。





7月9日(火)

【ちょっと思ったこと】
NGOの募金活動などと言うが.....

 夕食後にいつものように夫婦で散歩に出ようとしたら、若い女性が「東京に本部のあるNGOから来ました」と募金を求めてきた。胸には写真入りの身分証明書をつけており、目がうつろで尋常ではない。「し○ぜん」という団体で、ボランティア活動をしているのだという。どこに泊まっているのだと聞くと、友達の家で、仕事を休んで観光がてら岡山に来たという。

 そういえば数年前にも、同じ身分証明書をぶら下げた若者が研究室にやってきたことがあった。受け答えも一緒だった。某宗教団体の名前を挙げて問い正したが、違います、NGOですといって認めようとしなかった。

 後で、ネットで検索したところ、下記のようなサイトがヒット。それにしても、同じ団体名、同じやり口とは進歩が無いなあ。 ※上記のリンクはGoogleの検索結果から機械的にリンクしただけであり、それぞれのサイトを運営する個人・団体がどのようなものであるのか、長谷川は一切関知していません。念のため。
【思ったこと】
_20709(火)[心理]英語教育と日本語文法を疑う(2)学習ツールであればこその文法

 昨日の日記の続き。今回は

●『日本語に主語はいらない〜百年の誤謬を正す』(金谷武洋、講談社選書メチエ、2002年)

を読んで感銘を受けた点を少々。

 この本は、今年の春、生協ブックストアで平積みになっているのをたまたま見かけて購入したものであった。ちょうど文学部の同僚が店内に居たので、「金谷さんってご存じですか」と尋ねたが誰一人知らない。妙なことだと思っていたが、前書きを読んで謎が解けた。なんと、カナダのモントリオール大学・東アジア研究所の教員であり、実際にカナダ人に日本語を教えておられる実践家だったのである。

 外国人に日本語を教えるには、そのツールとして活かせる日本語文法が必要である。ところが、日本でずっと教えられてきた学校文法は、ちっとも役に立たない。助詞の「は」と「が」の区別を教えられない、「あなた英語」を解消できない、などさまざまな問題が持ち上がってきたのであった。

 それを改善すべく金谷氏が辿り着いたのは
  • 三上理論の発展
  • 生成文法批判
  • 自動詞、他動詞の機能対立を、さらに広範な受身や使役も含んでの態(ヴォイス)の問題として捉えなおす
であったと私は読み取った。このうち三上章(1903〜71)氏の理論は、「主語無用論」、「日本語に人称代名詞という品詞はいらない」、「助詞『は』をめぐる誤解」として発展させられた。そしてこれらはすべて、英語を鏡とした文法とは異なった形で体系化されていくのである。学問的評価がどう下されようと、これらは、日本語学習者にとって有用なツールである。理論というのは本来こうあらねばならないと思う。

 金谷氏が第4章の中の「生成文法的アプローチの問題」のなかで強調された点をいくつか抜き書きしておこう。
  • 多くの発表は,.....【中略】.....数学か論理学か,はたまたコンピュータ・サイエンスなのか知らないが,言っている内容が私にはまるで理解不可能なのである。それでも,彼らに共通する姿勢が明らかだった。それは,ひたすら英語を鏡にして,チョムスキーの最新理論を適用することで日本語(や朝鮮語)を説明しようとする姿勢である。[144頁]
  • 母語話者でない学習者を対象にする我々日本語教師にとって,生成文法理論の最大の弱点は,その考察や理論が教室で一向に役に立たない,ということだ。英語を準拠として「かきまぜ」なり,移動なり,変形なりで説明する日本語教育が効果的とは思えない。[147頁]
  • 極めて特殊な言語の英語を鏡にして,普遍性を主張されては,まったくタイプの違う日本語などは迷惑である,と声を大にして訴えたい。深層での普遍性を日本語にもあてはめようと論理学的,記号学的,数学的操作をしたところで,それは何ら客観性を持つものではない。少なくとも日本語教師がとるべきアプローチではあるまい。マルチネ的な具体的な物的証拠がない限り,我々としては「そうかも知れませんが,さあ,証拠もありませんしね」と答えるだけでいいのだ。生成文法最大の弱点は,この「検証不可能性」にあるのだから。[147〜148頁]
  • 深層に潜ったとたんに「何でもあり」になってしまう例として「すべての言語には普遍的に/P/音がある」という大胆な仮説はどうだろう。「いや,○○語には/p/音がない」という報告が必ずなされるに違いない。その時,少しも慌てることはない。「この言語では/P/はないが,/f/音がある。これは深層の/p/が変形したものだ」と答えればいいのだ。[148頁]
  • チョムスキー派の学者には誠に便利な「深層・変形・移動・省略」などだが,そうした分析が客観的経験科学としての言語学とは思えない。再現,検証できない仮説は,仮説で終わるしかないのである。[148頁]
  • マルチネが主張するように,発話の場面の振る舞いこそがデータのすべてである。発話で主語がなければ,その言語には主語がないと言っていいのだ。[148頁]
金谷氏は、上記引用の最後のところでマルチネ[フランスの言語学者、アンドレ・マルチネ。1984年にICUでこの教授のセミナーがあり金谷氏も参加]の優越性を論じておられるが、上記引用に関する限りでは、行動分析学の創始者のスキナーもきわめて近いことを言っている点を付け加えさせていただく。

 上記引用の中で「深層に潜ったとたんに「何でもあり」になってしまう」というのは、心理学の諸理論についても当てはまることだ。「検証不可能性」批判も全く同様だ。だからこそ、私は、日常生活や生きがいに役立つツールとしての「能動主義の心理学」を目ざしているのである。




 余談だが、この本の初稿のタイトルは『日本語・この不幸なことば』、その後も三上氏に敬意を表して『やはり日本語に主語はいらない』というタイトルを考えておられたなどと序章に書かれてある。そんなこともあって、この本を読み始めた際、金谷氏はきっと三上章氏のような、顎がこけてメガネをつけた60歳〜70歳くらいの苦学者のお顔をしているのではないかと勝手に想像してしまった。しかし、カナダ人と結婚されたお話、出身大学の同学年の方に、故・大塚恵・お茶の水大学助教授がおられたという謝辞の記述からみて、じつは私とほとんど同じお年であることが判明した。ネットで検索してみたところ、CAJLE staff profileというサイトの中に、お写真を発見。カナダ人女性にプロポーズした方だけあって、さすがハンサムなお顔をしておられる。