じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
【8月10日 セルシュ〜玉樹】
セルシュ(標高4200m)からアンバ・ラ(標高4,600m)に至る途中に見た「星状雪兔子」(Saussurea stella)。茎のない変わった姿をしている。 |
【ちょっと思ったこと】
10月に入って変わったこと 早くも10月になってしまった。10月は秋が本格化する月であると共に、後期授業が始まる月でもある。気づいた変化をいくつか。
アジア大会の主役はどこか? アジア大会での日本選手の活躍ぶり、特に、水泳や柔道での大活躍の様子が連日伝えられている。日本ばかりがメダルをとって申し訳ないような気がすると思いつつ新聞のスポーツ欄を見たところ、第5日の21日現在で
スポーツの英才教育やメダル至上主義的な報奨制度は好ましくないと思うが、もはやアジア随一のスポーツ大国は中国、日本にはそれを超えるパワーが無いというのはちょっぴり寂しいことだ。せめて、技術水準、文化水準、生活水準といったあたりでトップの座を維持したいところだが、これもかなり危ういのでは。 |
【思ったこと】 _21003(木)[心理]「有意差」と別に「傾向差」? 14時20分より卒論中間発表会。卒論締め切りは1月下旬であるが、このあたりで一度、ここまで進んでいるという状況をみんなの前で示し、お互いに批評しあい、第2実験や第2調査に取り組もうというのが趣旨であった。 そんななか、ある学生の発表で気になる言葉を耳にした。統計検定で「有意差」とは別に「傾向差」という言葉を頻繁に使っていたのである。「有意差」とは「p<.05」、「傾向差」は「p<.10」という意味だそうなんだが、手元の統計学入門書を見ても「傾向差」などという言葉は出てこない。誰が発明したのだろうか。 そもそも統計学でいう有意水準というのは便宜的に定めたものであって、1%でも5%でも10%でもよいのだが、いったん定めたからには、それに達しない場合は「有意差無し」とすべきである。「有意差あり」と「差があると確言するわけにはいかない(有意差なし)」とのあいだに、「有意差は無いがその傾向はある」などという「灰色」領域が存在するわけではない。「有意差無し」全体が「灰色」領域なのである。有意水準を定めるというのは、その時のご都合主義で勝手な結論を出さぬよう合理的な範囲であることを前提に約束事として決めているにすぎないわけだ。 もう一度強調しておくと ●有意差検定というのは、「差があるかもしれない(効果があるかもしれない、明らかに違いがあるかもしれない」という対象について、灰色領域の中からほぼ確実にクロと言える部分を見つけ出す作業である。対象をクロとシロと灰色に区別する作業ではないし、灰色をクロっぽい灰色と、シロっぽい灰色に分ける作業でも決してない。 このあたりのことはかつて心理学研究法再考:(1)基礎的統計解析の誤用をなくすための30のチェック項目で詳しく取り上げ、2回生向けの授業でも毎年話しているはずなんだが、なかなか分かってもらえない。特に2.3.1.のあたりを読んでほしいと思う。念のため、橘敏明氏の『医学・教育学・心理学にみられる統計的検定の誤用と弊害』(医療図書出版、1986年、p.63〜73ほか)からの引用を再掲すると.....
「傾向差あり」という表現は、「いろいろ実験してみたけれど有意差は1つも出なかった。それではガッカリなので、傾向差アリとしてなぐさめておこう」という気持ちが背景にあるように思われる。しかし、「有意差はなかったが傾向差があったので両群には差があるという仮説は支持される傾向にあたった...」などと考察してしまったら、統計検定の意味がなくなる。 今回は無かったが、提出された論文の中には「今回は有意差が無かった。原因は被験者数が少なかったためと考えられる。今後は有意差を出せるように被験者数を増やして検討する必要がある」などと書いたり、実際に、少しずつ被験者を増やしていって有意差が出たところでやめるなどという奇妙な実験計画をたてている事例もある。心理統計の授業などというとどうしても技法の伝授だけで半期が過ぎてしまうことが多いが、もういちど根本に立ち返って、有意差の意味とか、第一・第二の過誤とか、検定力などについて、入門書を紐解いてみてほしいところだ。 [※10/4追記] 青木繁伸氏のサイトに、「傾向差」やp値についての解説があった。こちらにメッセージボードもあり。 |