じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真] 岡大七不思議(←長谷川が勝手に選定)の1つの「落ちないアメリカフウ」。昨日御紹介した「落ちないイチョウ」はこのところの寒さでほぼ完璧に葉を落としてしまったが、こちらのアメリカフウのほうは一株だけまだ葉をつけている。


12月11日(水)

【思ったこと】
_21211(水)[心理]日本ダイバージョナルセラピー協会設立セミナー(4)全人的な視点

 12/1に行われた表記のセミナーの感想。何とか2週間以内には連載を完結させたいのだが、他の話題に引きずられて先延ばししている。

 12/3の日記で、あくまで私見であると断りつつ、ダイバージョナルセラピー(Diversional Therapy、以下DTと略す)の特徴を次のように列挙した。
  1. 個の尊重
  2. 自立の尊重
  3. 能動的な「できること」の重視
  4. 生活に変化をもたらすために設計された、依頼者への意識的な介在(intervention)
  5. 全人的な視点
  6. 「assessment(事前評価、審査、生活史や欲求についての調査)」→「planning(計画・設計)→「implementaiotn(実行)」→「 valuation(事後評価)」という4段階のシステマティックな反復
 今回は、このうちの「全人的な視点」について考えてみたいと思う。

 「全人的な視点」という言葉は、学校教育の世界では昔から使われてきたが、ネットで検索すれば分かるように、最近では特に、医療分野でしばしば登場するようになっている。医療技術の発展によって、身体内部の局所的な疾患に対する治療は格段に進歩した。しかしそれだけでは人間全体を治すことはできない。また、どんなに進歩しても、人は最終的には治癒が不可能な状態に陥る。その際の緩和ケアでは、直接的な痛みや倦怠感などへの対処のほか、心理面や社会面での全人的なケアが必要になってくる。

 「全人的な視点」ということは、セラピーの対象となる人の個人的な事情にも関わってくる。12/7の日記でも述べたように、DTの対象は主として高齢者、それもしばしば痴呆症のお年寄りが多い。ライフステージの出発段階に立ち、自立のための準備行動がどうしても必要な発達障害児とは明らかに異なる。

 発達障害児を対象とする場合には、将来の自立のために、望ましい行動や問題行動を具体的に把握し、それらを強化あるいは弱化することによって、質の高い行動リパートリーを増やし社会的生活を充実させることに主たる関心が向けられる。もちろん、全人的な視点が求められることは変わりないけれど、その中心は「将来に活かせる手段的な行動」の形成にあると言えよう。

 これに対して、DTのほうは「できること」に本質的な意味を見出し、それが何であれ、その行動をサポートし、適切に強化されるように環境を整えることに関心が向けられているように思う。つまり、「手段的な行動の形成」ではなく、「行動すること、それ自体が目的」となりうるのである。「目的を達成するための遊び」ではなく、あくまで「目的を持った遊び」なのだ。

 これまで行動分析の研究者は、どちらかと言えば発達障害児に関わる人が多かった。それゆえ、高齢者福祉を障害児教育の延長上で同じようにとらえてしまいがちなところがある。このことは、昨年3月に行われた公開講座「高齢者介護の実践と行動分析学からの提案」(主催:日本行動分析学会、後援:日本老年行動科学会)に参加した時に強く感じたことである。そこでは
  • 特定の人に対して繰り返される暴言や暴力の対処
  • 思うようにならないと適応困難になる入居者への援助
  • 失語症で不穏状態、転倒を繰り返す人とのコミュニケーションと支援
といった、介護施設職員からの「お悩み相談」的な事例ばかりが取り上げられていたが、じゃあ、「暴言、暴力、適応困難、不穏状態」といった問題行動が解決されればそれでメデタシメデタシになるのだろうか? こういう疑問をもつきっかけになったことが、この公開講座に参加した最大の収穫?であったように思う。

 施設職員が限られている中では、個別の問題行動の解決は緊急を要するし、切実な願いではあることは分かるのだが、入所者のQOLを高めるために何が必要なのか、といった、高齢者福祉の将来を見通した全人的視点からの議論が必要ではなかったかと思う。

 縁あって、その後DTの存在を知る機会があったわけだが、オーストラリアで現実に行われているDTにはまだまだ不備が多いとはいえ、少なくとも目指している方向性は間違ってはいないと強く感じるこのごろである。