じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
講義棟の南側に植えっぱなしにしてあるアネモネが今年も花を咲かせた。いろいろな花の中で特に見事だと思ったのは右の写真。チベット高原のブルーポピーに匹敵する美しさである。 |
【ちょっと思ったこと】
コウシキセン プロ野球公式戦が始まった。ところが19時台のNHKニュースでは、まず大リーグの松井の活躍ぶり、次が高校野球、3番目にやっと公式戦の途中経過が報じられた。 夕食をとりながら私が、 いくら松井が打ったからといって、たかがオープン戦じゃないか。途中経過とはいえ日本のプロ野球は公式戦。その開幕の様子ぐらい伝えたらどうなんだ。 と腹を立てたところ、妻が、 ねえ「ナンシキセン」もあるの? 妻が本当にそう思って言ったのか、ジョークでそう言ったのか、いまだ謎である。 聖戦ノ美名二隠レテ 昨年3月の日記を検索していたら3/7の日記で斎藤隆夫氏の演説の一部を引用したことに気づいた。この言葉は、いま、ますます重みを持っている。その後、演説の全文を公開しているサイトがあったので、関連部分を要約引用させていただく。議場の様子の記述部分は省略させていただいた。 世界の歴史は全く戦争の歴史である。現在世界の歴史から、戦争を取り除いたならば、残る何物があるか。そうしてーたび戦争が起こりましたならば、もはや問題は正邪曲直の争いではない。是非善悪の争いではない。徹頭徹尾力の争いであります。強弱の争いである。強者が弱者を征服する、これが戦争である。正義が不正義を贋懲する、これが戦争という意味でない。先ほど申しました第一次ヨーロッパ戦争に当りましても、ずいぶん正義争いが起こったのであります。ドイツを中心とするところの同盟側、イギリスを中心とするところの連合側、いずれも正義は我に在りど叫んだのでありますが、戦争の結果はどうなったか。正義が勝って不正義が敗けたのでありますか。そうではないのでありましょう。正義や不正義はどこかへ飛んで行って、つまり同盟側の力が尽き果てたからして投げ出したに過ぎないのであります。今回の戦争に当りましても相変らず正義論を闘わしておりますが、この正義論の価値は知るべきのみであります。つまり力の伴わざるところの正義は弾丸なき大砲と同じことである。羊の正義論は狼の前には三文の値打もない。ヨーロッパの現状は幾多の実例を我々の前に示しているのであります。 ここに引用した演説の一部は決して反戦平和の訴えではなく、自国本位の国力の強化を説く内容となっているが、戦争の本質をよく言い当てている。人道援助とか経済援助とか言ったって、国家レベルで行う限りにおいては、国家利益が優先されている。ま、小泉首相もそのあたりのことはちゃんと分かった上で日米同盟の重要性を説いているとは思うが、一国をそんなに頼り切ってしまっていいもんかなあ。 それにしても、イラク攻撃の目的は何だったのだろう? 「イラク国民に自由を与える」などというのは、まさに「唯徒二聖戦ノ美名二隠レテ」にほかならない。 この日記でも何度か書いたことがあるが、ブッシュやその取り巻きのそもそもの誤りは、テロの手段さえ取り除けばテロが撲滅できると考えていることだろう。しかし、テロというものは、いくら手段を無くそうとしても、テロの原因となる社会的な背景を改善していかない限りは決して撲滅することができないものだ。 これは犯罪行動一般についても言えるだろう。例えば、拳銃を無くせば拳銃を使った強盗は減る。しかし、今度はナイフを使った強盗が現れる。ナイフを規制すれば、今度は、先のとがった工具を使った強盗が現れるだろう。あるいはガソリンをまいて脅かす強盗も出てくる。我々の日常生活の中から、殺傷能力のある器具をすべて取り除くことができない以上、手段を制御することで犯罪を防止できるというような幻想は捨てなければならない。 何度も書くが、9.11の同時多発テロでは大量破壊兵器は一切使われていない。セキュリティ・チェックで見逃された刃物類と、平和的な輸送手段である航空機が使われたのではなかったかなあ。 |