じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真] 講義棟の南側に植えっぱなしにしてあるアネモネが今年も花を咲かせた。いろいろな花の中で特に見事だと思ったのは右の写真。チベット高原のブルーポピーに匹敵する美しさである。 [写真]


3月28日(金)

【ちょっと思ったこと】

コウシキセン

 プロ野球公式戦が始まった。ところが19時台のNHKニュースでは、まず大リーグの松井の活躍ぶり、次が高校野球、3番目にやっと公式戦の途中経過が報じられた。

 夕食をとりながら私が、
いくら松井が打ったからといって、たかがオープン戦じゃないか。途中経過とはいえ日本のプロ野球は公式戦。その開幕の様子ぐらい伝えたらどうなんだ。

と腹を立てたところ、妻が、

ねえ「ナンシキセン」もあるの?

妻が本当にそう思って言ったのか、ジョークでそう言ったのか、いまだ謎である。




聖戦ノ美名二隠レテ

 昨年3月の日記を検索していたら3/7の日記で斎藤隆夫氏の演説の一部を引用したことに気づいた。この言葉は、いま、ますます重みを持っている。その後、演説の全文を公開しているサイトがあったので、関連部分を要約引用させていただく。議場の様子の記述部分は省略させていただいた。
 世界の歴史は全く戦争の歴史である。現在世界の歴史から、戦争を取り除いたならば、残る何物があるか。そうしてーたび戦争が起こりましたならば、もはや問題は正邪曲直の争いではない。是非善悪の争いではない。徹頭徹尾力の争いであります。強弱の争いである。強者が弱者を征服する、これが戦争である。正義が不正義を贋懲する、これが戦争という意味でない。先ほど申しました第一次ヨーロッパ戦争に当りましても、ずいぶん正義争いが起こったのであります。ドイツを中心とするところの同盟側、イギリスを中心とするところの連合側、いずれも正義は我に在りど叫んだのでありますが、戦争の結果はどうなったか。正義が勝って不正義が敗けたのでありますか。そうではないのでありましょう。正義や不正義はどこかへ飛んで行って、つまり同盟側の力が尽き果てたからして投げ出したに過ぎないのであります。今回の戦争に当りましても相変らず正義論を闘わしておりますが、この正義論の価値は知るべきのみであります。つまり力の伴わざるところの正義は弾丸なき大砲と同じことである。羊の正義論は狼の前には三文の値打もない。ヨーロッパの現状は幾多の実例を我々の前に示しているのであります。

 かくのごとき事態でありますから、国家競争は道理の競争ではない。正邪曲直の競争でもない。徹頭徹尾力の競争である。世にそうでないと言う者があるならばそれは偽りであります、偽善であります。我々は偽善を排斥する。あくまで偽善を排斥してもって国家競争の真髄を掴まねばならぬ。国家競争の真髄は何であるか。日く生存競争である。優勝劣敗である。適者生存である。適者即ち強者の生存であります。強者が興って弱者が亡びる。過去数千年の歴史はそれである。未来永遠の歴史もまたそれでなくてはならないのであります。

 この歴史上の事実を基礎として、我々が国家競争に向うに当りまして、徹頭徹尾自国本位であらねばならぬ。自国の力を養成し、自国の力を強化する、これより他に国家の向うべき途はないのであります。

 かの欧米のキリスト教国、これをご覧なさい。彼らは内にあっては十字架の前に頭を下げておりますけれども、ひとたび国際問題に直面致しますと、キリストの信条も慈善博愛も一切蹴散らかしてしまって、弱肉強食の修羅道に向って猛進をする。これが即ち人類の歴史であり、奪うことの出来ない現実であるのであります。この現実を無視して、ただいたずらに聖戦の美名に隠れて、国民的犠牲を閑却し、日く国際正義、日く道義外交、日く共存共栄、日く世界の平和、かくのごとき雲を掴むような文字を列べ立てて、そうして千載一遇の機会を逸し、国家百年の大計を誤るようなことかありましたならば現在の政治家は死してもその罪を滅ぼすことは出来ない。

 ここに引用した演説の一部は決して反戦平和の訴えではなく、自国本位の国力の強化を説く内容となっているが、戦争の本質をよく言い当てている。人道援助とか経済援助とか言ったって、国家レベルで行う限りにおいては、国家利益が優先されている。ま、小泉首相もそのあたりのことはちゃんと分かった上で日米同盟の重要性を説いているとは思うが、一国をそんなに頼り切ってしまっていいもんかなあ。




 それにしても、イラク攻撃の目的は何だったのだろう? 「イラク国民に自由を与える」などというのは、まさに「唯徒二聖戦ノ美名二隠レテ」にほかならない。

 この日記でも何度か書いたことがあるが、ブッシュやその取り巻きのそもそもの誤りは、テロの手段さえ取り除けばテロが撲滅できると考えていることだろう。しかし、テロというものは、いくら手段を無くそうとしても、テロの原因となる社会的な背景を改善していかない限りは決して撲滅することができないものだ。

 これは犯罪行動一般についても言えるだろう。例えば、拳銃を無くせば拳銃を使った強盗は減る。しかし、今度はナイフを使った強盗が現れる。ナイフを規制すれば、今度は、先のとがった工具を使った強盗が現れるだろう。あるいはガソリンをまいて脅かす強盗も出てくる。我々の日常生活の中から、殺傷能力のある器具をすべて取り除くことができない以上、手段を制御することで犯罪を防止できるというような幻想は捨てなければならない。

 何度も書くが、9.11の同時多発テロでは大量破壊兵器は一切使われていない。セキュリティ・チェックで見逃された刃物類と、平和的な輸送手段である航空機が使われたのではなかったかなあ。