じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真] 洋梨の花。過去の日記を調べたところ、
  • 2002年:4月8日頃
  • 2001年:4月11日頃
  • 2000年:4月18日頃
  • 1999年:4月16日頃
に撮影した満開の花が掲載されていた。今年は3日ほど開花が遅いようだ。梅の花に比べると桜の開花ははるかに短いが、梨の花が咲く期間は、その桜よりさらに短い。


4月10日(木)

【ちょっと思ったこと】

締め切りを守るわたし/8月までは滅私奉公/高所オフミのおさそい

 春休み中に執筆していた3編目の原稿を20時頃に書き上げ提出。40日余りに書いた3編の合計は5万4239字。Web日記なら1日に3000字でも4000字でも気楽に書いてしまうが、どこかに出す原稿となるとスピードは5分の1ぐらいに減ってしまう。ま、そんなもんだろうか。

 さてこれで個人的な仕事はすべて完了。これから8月の行動分析岡山大会までは、授業と学会準備、それと大学内の管理運営業務などが重なり、滅私奉公の日々を過ごすことになりそうだ。

 8月の学会が終わったら、10日ほど休暇をとってぜひ海外のトレッキングに行きたいと思っている。SARSが怖いので今年は中国チベット方面は取りやめ。代わりに、ボリビア・アンデスの5300m登頂、カムチャッカ半島、モンゴル最高峰登山、アイスランド、あるいはアタカマ塩湖(チリ)あたりにしようかと思っているところだが、どなたかオフミを兼ねてご一緒しませんか?

【思ったこと】
_30410(木)[心理]質的分析と行動分析(6)観察法と行動分析

 澤田・南 (2001、質的調査〜観察・面接・フィールドワーク. 南風原朝和・市川伸一・下山晴彦 (編).『心理学研究法入門:調査・実験から実践まで』.東京大学出版会, pp19-62.])は、観察法(observation method)を

人間の行動を注意深く見ることによって対象者を理解しようとする研究方法である.

としている。もっとも、この定義だけでは「注意深く見る」や「対象者を理解する」ということはどういうことなのか見えてこない。また、人間以外の動物や植物も観察の対象となる。科学的な研究方法はすべて観察を出発点としている言っても過言ではないだろう。

 狭義の観察法は自然的観察法(natural observation)のことをいう。これは実験法と対置される研究法であり、澤田・南 (2001)によれば、観察を行う状況を研究者が意図的に拘束・操作するか否かにによって区別される。研究者によって統制を施していない状況下、すなわち自然の状況下で人間の行動を観察する方法(observation in un-contro11ed setting)が自然観察法であり、研究目的によって何らかの条件統制が施されている状況下、すなわち研究者が意図的に条件を配置した状況下で人間の行動を観察する方法(observation in controlled setting)が実験法ということになる。もっとも、参加観察法のように、どちらの側面も合わせもっている方法もある。また、研究者自身が手を加えなくても、法律制定や何らかの事件によって、結果的に、研究者が求めていた実験操作と同じ介入が行われることもある。

 なお、実験研究において行われる「統制」には、「実験的介入を行う」という意味と、「無作為な割付を行う」という2つの意味があり、この2つの条件が揃わない場合には、厳密な実験的研究とは言えない。例えば、男女2つの群に実験的介入を行ったとしても、無作為な割付ができていない(→被験者を2つの群にランダムに割り付けることができない)ので実験研究とはいえない。この場合は、「準実験的研究法」と呼ばれている。

 澤田・南 (2001)が認めているように、観察法と質的分析は同一ではない。むしろ、心理学における観察法は、対象をカテゴライズし、出現頻度などを量的に分析する手法が主流となっている。そのような意味での行動観察は、行動分析学の研究でもごく普通に行われている。澤田・南 (2001)は観察方法に対応した記録・分析方法として「時間見本法」、「場面見本法」、「事象見本法」、「日誌法」の4方法を挙げているが、4番目の「日誌法」を除けば、東(1987、『新版 子どもの行動変容』. 川島書店)が行動分析における観察法として挙げている「連続記録法」、「事象記録法」、「継続期間記録法」、「間隔記録法」、「時間見本記録法」、「プラチェック記録法」などと内容に殆ど差のないことがわかる。

 では、行動分析における観察と自然観察法とはどう違っているのだろうか。ここでは、澤田・南 (2001)が挙げた“「積む」ではなく「載せる」という概念”というコラム(p.22〜23)を引用しながら、アプローチの違いをみていきたいと思う。澤田氏の観察例は次のように要約できる。以下「M」は澤田氏の1歳(当時)の息子さんである。
  1. Mの前に積み木を出してみた.すると,Mは立方体の積み木をつまみ,不器用ながらももうひとつの立方体の上に積んだ.筆者と妻は「すごい」と大声を上げて喜び手をたたいた.
  2. すると,Mはびっくりした様子で両親を見たが,「すごいね」とうなずきながら手をたたき続けると,Mも手をたたき始めた.
  3. Mの前に2つの積み木を置くと,Mはそれを積み,両親の拍手と同時に自分も手をたたいた.しばらくそれを続けているうちに,両親が手をたたかなくてもMひとりで慎重に積み木を積んでは親の顔を見ながら拍手することをくりかえしていた.
  4. しばらくの期間,Mがひとりで遊んでいるときにも積み木を積んでは手をたたく行為がくりかえされていた.また,積み木だけでなく,紅茶缶や茶筒のような直方体や円柱を積んでは手をたたく姿が見られた.Mが手をたたいていれば,必ずその前には何かが積まれていたのである.
  5. 最初の観察から数日後,Mが廊下の椅子の上に置いてあったはがきで遊んでいた.離れた位置からその様子を眺めていると,1枚のはがきを床の上に置き,さらにもう1枚のはがきをその上に重ねて手をたたいていた.
  6. 食卓につかまり立ちをして,その上に積み木や紅茶缶をひとつ載せてはうれしそうに手をたたく姿が観察された.同じような物を2つ積んだ(重ねた)場合ではなく,ひとつであっても手をたたくのである.
  7. ソファーの上に物を載せても得意気に手をたたく.チェストなどの家具の上も同様である.しかし,床に置いたときには手をたたかない.床に置いた物の上にさらに別物であっても何かを載せれば拍手する.
  8. その後,筆者は,3つ以上の物を載せたときにMが手をたたくという観察しかできていない.

 上記は、対象者を拘束しないという自然観察法の事例として挙げられたものとされている。しかし、行動分析の視点から見れば、以下のような解釈も可能である。
上記1.において、「筆者と妻」はM君の「立方体の積み木をつまみ、不器用ながらももうひとつの立方体の上に積む」という行動に対して、“「すごい」と大声を上げて喜び手をたたく”という強化を行っているのである。この場合、「手をたたく」行為やその音自体が好子になっていたのか、それとも、両親の笑顔や注目が好子になっていたのかは定かではない。またM君が自分で手をたたく行為がどのように強化されたのかも定かではない。いずれにせよ、「積み木をつまんで別の立方体の上に移動する」という行動は強化され、それはさらに、「葉書の上に葉書を載せる」、「食卓の上に積み木や紅茶缶を載せる」、「ソファーやチェストの上に何かを載せる」という行動にも般化した。但し、「床自体に物を置く」行動には般化しなかった。積み重ねるという行動は、それ自体「成功」によって行動内在的に強化されるようになり3つ以上を載せる行動を形成した。いっぽう、単に「物の上に物を載せる」という行動は、難易度が低いために行動内在的に強化されず、かつ周りからの付加的な強化(賞賛、拍手)もなかったため消去された(但し、3つ以上を載せる時の準備行動としては引き続き強化されている)。
 ここで重要な点は、自然観察法が、「対象者を拘束しない」、「日常生活の中で適切な観察状況を選択する」と特徴づけられたとしても、実際には、観察者から何らかの働きかけを行っている可能性があるということだ。あるいは逆に、観察場面に限って働きかけを行わないことが「無視」による消去や弱化をもたらすこともある。結局のところ、「日常生活の中で適切な観察状況を選択する」ことと、「日常生活場面で、特定の外在要因を操作して影響を確かめる」ということの間には本質的な差違があるとは考えにくい。上記のM君の行動を解明するには、両親がM君のどういう「積む行動」を賞賛していたのか、その際の暗黙の強化基準は何であったのか、また、その日常生活場面でどういうオペランダムが用意されており、どの行動とどの行動が接近して起こりやすい状況にあったのかを把握する必要があるだろう。

 なお、澤田・南 (2001)は、上記の事例を「般化」で説明することに対しては
はがきを「重ねる」とは表現しても,2枚程度では「積む」とは表現しない.これを「積み木を積む」から「はがきを重ねる」への般化ととらえることもできる.しかしそれは,あくまで「積む」,「重ねる」の概念をもっている大人の視点からの理解である.親が積み木を積むことに拍手をしたからといって,Mが「積む」という概念をもっているとは限らない.「重ねる」についても同様である.般化の前提は,既有の異なる概念に対して適用された場合である.そうなると,Mが手をたたく状況を丹念に観ていくことで,Mのもっている概念を明らかにしていく必要がある.
というように否定的な見解を示している。しかし、行動分析的な視点から言えば、そもそも「積む」、「重ねる」は、日常表現を借用した便宜的な記述にすぎない。行動の出現の有無は一定の操作的基準により判断されるのみである。かつ、「特定の概念をもつ」ことは般化の有無の前提には断じてならない。概念がなければ般化が起こらないとすると、動物の学習行動で広く見られる般化はどう説明すればよいのだろう? この種の現象は、刺激般化や、反応クラス(何らかの共通特性をもった反応の集合)によって記述されるべきであろう。また、分化強化や分化弱化によって変わりうるものである。