じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真] [今日の写真] 文学部西側の空き地にヒメジョオンが咲いている。葉の形と開花時期からみて、へラバヒメジョオン(ヤナギバヒメジョオン)ではないかと思われる。ある角度から見ると、まるで高原に咲く花のように見えるが、別の角度からは単なる空き地の雑草にしか見えない。
ま、好意的に解釈すれば、どんなツマラナイ人間でも、ある角度から眺めた時には輝いて見えるということなんだろう。


10月6日(月)

【ちょっと思ったこと】

SARS再び?

 夕食時にNHKクローズアップ現代「新型肺炎は再び襲ってくるか〜ウィルスの正体に迫る〜」を見た。SARSの恐ろしさとして、未だにおおもとの感染源が分からないこと、変異を繰り返し感染力を強めたこと、今後の変異で肺以外、例えば脳を襲う可能性もあること、などがよく分かった。

 それにしても、何千年にも及ぶ中国の歴史の中で、なぜ今になってSARSが人間を襲ったのだろう。禁断の密林に開発の手が伸びたためとはちょっと考えにくい。ガソリン、ペットボトル、農薬、洗剤、抗生物質、放射性廃棄物など、人間が作った何らかの物質が変異を増大させたということはないだろうか。これはBSEについても言えそうだが。

 番組ではSARSの変異のメカニズムを解明する研究も紹介していたが、そういう成果は、まかり間違えば、テロ組織が強力なウィルスを開発する手がかりとなる恐れがある。そういう者たちの手に渡ったり、それを取り戻そうと攻撃をしかけているうちに、人類は滅びてしまう恐れだってある。地球上で最も怖い最終兵器は核爆弾ではなく、新型ウィルスかもしれないと思う。




多摩川の鮎

 クローズアップ現代に引き続いて「地球・ふしぎ大自然:大都会にアユ百万匹! 多摩川 奇跡の復活!」を視た。東京・世田谷で生まれ育った私にとって、多摩川は最も身近な川であった。当時は、三軒茶屋から玉電に乗って二子玉川園まで。そこから少し歩くと土手に出たと記憶している。二子玉川園からはもう1つ、砧線という支線があった。砧線が廃止される最後の日に乗りに行ったこともあった。ちょうど川の汚染が深刻化していった頃であり、多摩川は汚い川だという印象が今でも残っている。

 そんな川に鮎が戻ってきたというのだから驚きである。生活排水の処理が徹底されたことのほか、東京湾全体が魚の棲める水質に戻ったことも大きい。多摩川を上る鮎は、利根川中流から江戸川を経て東京湾に下った稚魚の子孫であるようだ。番組ではこのほか、魚を獲るカワセミ、ウナギ、ドジョウ、ナマズ、テナガエビなどの映像もあった。

 多摩川で思い出すのは、河川敷の利用の問題だ。2000年6月13日の日記に書いたように、河川敷というとグランドなどスポーツ施設を作ることが有効利用であると思われがちだが決してそうではない。川は周辺住民の憩いの場であるとともに、山、川、海をつなぐ壮大な大自然のネットワークの基幹ルートでもある。水が流れている場所だけでなく、その周りに在来の植物が茂り、近くに森があってこそ川の自然は守られる。スポーツ愛好家には申し訳ないが、野球やサッカーやテニスをするなら川から離れた平地でお願いしたい。河川敷は自然に返すべきものであり、せいぜい、遊歩道やサイクリングコース、子どもたちの安全な遊び場程度を整備すればよい。

【思ったこと】
_31006(月)[心理]年老いて死を受容する条件

 11月中旬に、ダイバージョナルセラピーの講習の一環として、高齢者の心理について1回分の講義を担当することになっている。私自身も10月中に51歳を迎えることでもあり、これを機会に、高齢者の問題をいろいろ考えてみたいと思う。

 自分自身が定年退職し、悠々自適の生活が実現した時に、おそらく一番不安に思うのは、「あと何年生きられるか」ということだと思う。先のことを考えず現在をしっかり生きていけばよいのだが、迫り来る死のことを思う限りは決して安泰な余生は送れない。となると、単にその日その日が充実しているだけではダメであり、将来の死をどう受け入れていくのか、しっかりとした考えをもつことが求められるようになる。

 年老いることで死を受容する状況というのは3通りあるように思われる。

 1つは、もう生きる気力が無いという絶望のどん底だ。生きる気力が無いわけだから死を恐れる気持ちも少ないと思われるが、これはあまりにも空しい。

 2番目は、死を宗教的に意義づけることだ。天国に召される、極楽浄土に行かれると考えれば、死を恐れる気持ちは減るだろう。もっともこれは本質的には死を受容しているわけではない。自分の魂は永遠に生きながらえると思い込みつつ肉体上の死の部分だけを受容するだけのことである。

 では、本当の意味での受容とはどういうことか。それは、もはや自分という存在は如何なる形においても存続しない、それでもよしと達観できるようになることだ。世界最高齢になれば、そういう気持ちはおそらく自然に身に付いてくるものなのだろう。そこまでいかなくても、自分の役割を十分に果たした上で、誕生から死を繰り返す生き物の根本原理を十分に理解すれば、自分を含む個体の死を不安に思う気持ちは消えていくのではないかと思う。このあたりは、先人達の生き様、死に様に学ぶほかはあるまい。

 もっとも、初めに述べたダイバージョナルセラピーは、理性的に死の受容ができない痴呆症のお年寄りを対象とすることが多い。そういう状況では、ある意味では死そのものへの不安は少なく、別の形の不安に苛まれることが多いとも聞く。それをどう解消していくのかが別の課題となっているようにも思う。