じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真] [今日の写真] 「とっとり花回廊」内のコスモス畑と大山。11月2日撮影。ちなみに花回廊の入場者は11月3日に300万人を越えたという。1日違いで残念であった。妻も言っていたが、大山の借景が無ければ入場者は大幅に減っていたに違いない。

 写真右は行きがけに見た賀陽町エコセンター内のコスモス畑。こちらのほうがはるかに規模は大きいが、朝9時半頃ということもあって観光客は一人も来ていなかった。

 コスモスはメキシコ原産。これだけ日本人に愛される外来種は他にあるまい。


11月3日(月)

【思ったこと】
_31103(月)[心理]単なるパズル&クイズ番組をIQテストと称する欺瞞

 夕食時に子どもたちが、瀬戸内海放送(TV朝日系)の「全国一斉IQテスト!!生放送であなたのIQが正確に分かります!!」という番組を視ていた。かつての「マジカル頭脳パワー」や「平成教育委員会」のごとくこの種の「頭の体操番組」は好きなほうなんだが、司会者・古舘伊知郎氏の相当にいい加減な「IQ」解説と、職業集団への偏見を助長するようなステレオタイプな特徴づけ。それと、単にパズルやクイズとして楽しめばエエものを、視聴率を上げるためにわざと「IQ」などと称してカッコつけようとする姿勢が気に入らず、さっさと散歩に出かけた。

 そもそもIQとは何か、って言うたところで、それは「intelligence quotient」の略であり、数学的には「商」、ここでは「指数」であってそれ以下でもそれ以上でもない。要するに、さまざまな知的能力についての多元的な情報を総合するためにこしらえた便宜的な総合指標にすぎないのであって、遺伝情報みたいな固有不変で、やっとのことで見つけ出すような情報では断じてない。だから、「あなたのIQが正確に分かります」なんていうことはありえない。せいぜい、「今回実施したテストの総合成績の偏差値はこのくらいです」という程度の情報が分かるにすぎない(↓にも述べたが、偏差値と標準偏差が分かれば、自動的にIQが計算できる)。

 IQのQが「quotient」であるのは、スタンフォード・ビネ知能検査で、(測定された)精神年齢を暦年齢で割る(そして100倍する)という算出法に由来するのではないかと思うが、その検査でも1960年以降は偏差値IQに改訂されている。これは、知的能力に関するいろいろな下位検査の素点の偏差値を求め、それらを寄せ集めて、平均が100、標準偏差が15あるいは20になるように換算した値である。知的能力は量的に表現されるわけでも正規分布するわけでもない。非常に多くの人々に検査を実施し、それを強引に一次元上にランク付けし、正規分布になるような数値に換算しただけのことである。




 知能検査が有用であるのは、発達障害の程度や質を発見し、適切な指導方針を策定する時であろう。知的発達が遅れているといっても、全般的に遅滞があるのか、特定の能力だけが極端に低いのか(←学習障害児など)では対応が異なってくる。知能テストを行えば、それらの見極めができるし、また、実施する指導方法の効果測定の傍証にも使える(←とはいえ、レッテル貼りは禁物であり、あくまで、できることを具体的に伸ばしていく姿勢が大切)。

 知的障害の無い人が面白半分にIQが高いとか低いとか比較したところで、生産的な情報が得られるとは思えない。大人だったら、そういうテストをしなくても、自分の得手不得手は分かっているはずだ。苦手なところがあるなら、努力してそれを克服するか、別の道を選ぶかどちらしかない。

 IQのようなものがもてはやされる一因は、知育産業のたくらみにある。ある種の知的訓練をすることで「万能な知力」が伸ばせるならそれに越したことはない。しかし、こちらの論文で指摘しているように、万能性はそれほど期待されていない。
私たちは、日常生活では、“○○をすると頭がよくなる”、“この訓練は「脳力」を高める”といった表現をつかう。しかし、これは「知能」という一般性の高い能力があって初めて主張できることである。
 Baerは、IQ得点の一般性を主張する固定的な見解が根強く残っている現状に対して、(a)IQテストの考案者であるビネー自身が、“知能は不可分な単一体ではない”と指摘している点、(b)人間の認知はどのような一要因説でもうまく説明できないという証拠が1世紀にも及ぶ計量的研究の積み重ねのなかで集められている点を指摘している。さらに、Thorndikeが早くも1903年に“ある分野で成功をおさめた者は他分野でも成功するであろうという予測は、多少は的中する程度にとどまるのが関の山である”と知能の一般性を否定し、この正しさは教育心理学者のあいだで広く合意されている点を強調している。
 にもかかわらず、認知能力や特性の一般性と能力間の転移のおこりやすさを強調する理論がはばをきかせているのはなぜか。Baerは、その理由の1つとして、一般理論は教育産業界の宣伝上都合がよいということをあげている。確かに、“ある訓練をするとIQが20増える”とか、“タップダンスをすると心が鍛えられる”などという宣伝は、一般人には受けがいい。知能が個別能力の寄せ集めであることを受け入れてしまうと、訓練の効果がどのような技能の発達に貢献するのかを具体的に明示しなければならなくなり、簡潔な宣伝ができなくなるというデメリットがある。しかし、学問上の立場が宣伝上の都合に振り回されたのではたまらない。
 もしラテン語を学ぶことで万能な知的能力を高めることができるなら、実用性があろうとなかろうと日本人全員にラテン語教育を行えばよろしい。もし将棋や囲碁を学ぶことで万能な思考力や構想力が鍛えられるなら、国語や数学と同じように授業科目として取り入れればよろしい。そういうことが行われていないのは、知的能力なるものがもっとバラバラで個別的に鍛えられるものであることの証しと言えよう。

 もちろん、ある程度汎用性のある知力訓練というものは開発できると思うし、その意義は認めるが、誇大な宣伝はお断りだ。健康を守るためにはいろいろな物を食べるとよいと言われるように、知力の訓練(あるいは頭の老化防止)も、できるだけいろいろなジャンルに挑戦し、楽しみながら取り組んでいくことが最善ではないかと考えている。