じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
「とっとり花回廊」の帰りに撮影した伯耆大山。伯耆溝口側(西側)から眺める大山は写真左のように富士山そっくりの形をしている。いっぽう蒜山・大山スカイライン途中の三の沢から眺めた南壁は山脈状に連なっていて全く別の山のように見えるのが興味深い。
大山は、大学3年の頃(およそ25年前)に一度だけ弥山〜剣が峰〜ユートピア小屋の縦走をしたことがあった。登山道の幅10cmがほどで崩れやすく両側は絶壁という危険なところもあった。今では崩落が進み、縦走禁止。1995年夏にユートピア小屋から剣ヶ峰再登頂を目ざすも、こちらの道もかなり荒れていて身の危険を感じ、途中で引き返して三鈷峰登山に切り替えた。 |
【思ったこと】 _31105(水)[一般]「下品な寸劇」と「ミスコン」(後)ミスコンとセクハラ 中国・西安市で起こった「下品寸劇」事件に関連して、文化や風習や習慣、価値観、道徳観というのは、同じ国の中でも、時代とともに変わってくるものであること、そして、従来はごく当たり前に受けとめられていたイベント、童謡の歌詞、童話のストーリー、学校行事などが、人権、ジェンダー、その他、人間の尊厳に関わる諸問題についての意識が高まる中で見直しを迫られることがあると述べた。 その1つとして最近各地で中止を求められているのが「ミス○○コンテスト」という催しである。特に自治体後援のものについては、セクハラではないかという批判に基づいて見直しを迫られることが多いようだ(このほかイスラム圏では宗教上の理由からの反対もある)。 では、なぜミスコンはセクハラになりやすいのだろうか。その理由はいくつかあるが、 ●容姿、外見だけで女性の価値を決めつける という点が特に問題視されているように思える。 しかし、もう少し掘り下げて考えると、ある種のコンテストの妥当性を論じるにあたっては少なくとも3つの側面があることに気づく。
もっとも、何らかの競争や選択を迫られる状況、あるいは、何かの効果を実証しようという状況にあっては、この世の中、客観性のある物差しだけではやっていけない。合意形成のためにも、総合指標のようなものをこしらえる必要が出てくる。 審判員というのも、言ってみれば「その人自身の判断」という指標のようなもの。審判員の間の一致性がなくても、合計得点で決せられる場合が多い。審判員の決定に従うのは、信頼性や妥当性があると納得したためではない。審判員の判断に委ねることに合意し、それ以上の文句を言わないと約束することで、無用な対立を避けようとしているだけに他ならない。 2.は、「物差し」の利用のしかたに関わる問題である。いくら身長が正確に測れるからといって、背の低い人を差別するような仕組みは廃止されなければならない。私自身、背が低い(161.5cm)こともあって、中学高校の頃は、ずいぶんと屈辱的な思いをしたものだ。運動会では背の高い順番に行進させられた。フォークダンスの練習では、男子が女子より6人ほど多かったため、背の低い男子は女子役をやらされた。 容姿、外見だけで女性の価値を決めつけないミスコンであればセクハラにならないのだろうか。しかしこれも、現実には難しい。例えば、「ミス岡大コンテスト」を実施するにあたって、出演者の学業成績と100m競走の結果と大食い競争の結果を考慮すればセクハラにあたらないのかということになるが、この場合も、総合指標として採用する項目に必然性が無ければ別の批判を浴びることになるだろう。 では、審査員に対して「容姿、外見だけで決めつけず総合的に比較してください」と依頼すればそれでよいのか。しかしこの場合も、審査員の判断基準が明示されていなければ、単なるカモフラージュだと批判されるだろう。 3.は、どのようなイベントであっても、場所や文脈をわきまえなければ不適切になりうるということだ。この話題の発端であった「下品寸劇」事件はまさにそれにあたる。いくら下ネタを不快に感じる中国であるとはいえ、私的な宴会の席で裸踊りをやったところで咎められることはあるまい。 また、「容姿、外見だけで女性の価値を決めつける」ことがセクハラにあたると言っても、「容姿と外見だけで配偶者選びをしたい」と個人的に希望を表明することはセクハラにはあたらないだろう。 今回の大学祭では、「ミス岡大コンテスト」は一体どのように行われたのだろうか。どなたか情報をいただければ幸いです。 |