じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真] 農学部農場の梅。早咲きの株は今が見頃。


2月3日(火)

【ちょっと思ったこと】

伊東家の裏技で指が伸びる

 夕食時、久しぶりに伊東家の食卓を視た。面白かったのは片方の手の指を30秒ほど反らせたままにしておくと、指の長さが伸びるという「大発見」であった。さっそくやってみたが、確かに1cmほど伸びてしまう。

 これは単に、手のひらをぴったり重ねるための調整機能がずれてしまうためだと思ったが、番組によれば、指を反らせた時、一時的に指の関節が本当に伸びるためだという。

 ということは、背骨をしばらく反らせておけば身長も一時的に2〜3cm伸びる可能性がありそう。来年度の職員定期検診のときに試してみるかなあ(←背骨の異常発育の疑いで呼び出されたりして)。





思い出ベンチ

 上記の「伊東家」に引き続いてNHK教育の福祉番組「思い出ベンチ 亡き夫・妻をしのんで」を視た。

 番組によれば、東京都の日比谷公園と井の頭恩賜公園には、市民のメッセージを刻んだ「思い出ベンチ」が並んでいるという。東京都が親しみやすい公園造りを目的に、一般から寄贈を募ったものであるが、死別した家族への思いを刻んだ人も少なくないという。番組では、夫を亡くした加藤登紀子さんをゲストに、3人の寄贈者が夫婦の思い出を語っていた。今度、日比谷か井の頭を訪れることがあったら、それぞれのベンチのプレートを拝見しながら、ゆっくり廻ってみたいと思う。

 この日記でも何度か書いたが、年をとると、同じ風景に対しても「思い出」という付加価値がつくものだ。子供の頃遊んだ公園、商店街、通学路など、他者にはどうでもよさそうな風景が、絶景の観光地以上に素晴らしいものに見えてくる。ベンチまで置きたいとは思わないが、私も、上京時にそういう場所を訪ねてみるのを楽しみにしている。

 長年連れ添った夫婦の場合、配偶者を失った悲しみから立ち直るのは大変なことだと思う。私の場合、万が一妻が先に死んだら、私も後を追って殉死すると公言しているのだが、妻に言わせれば「あなたなんて、私が死んだ夜にはもう保険金の金勘定をして、若い女と再婚して、悠々自適な生活を始めるに決まってるわ」だそうだ。ま、わがかまな願いではあるが、どうせ一度は死ぬのなら、そういうことのないよう、妻に介護されて先に死にたいものだ。

【思ったこと】
_40203(火)[一般]節分の鬼をとりまく内部調整と外部調整

 節分の日の3日、各地の社寺では「鬼は外、福は内」の豆まきが行われたという。興味深いのは、岡山の最上(さいじょう)稲荷など、いくつかの有名社寺で、「鬼は外」のかけ声をやめ、「福は内」だけを繰り返していることだ。「鬼は外」と言わない大概の理由は、「鬼も改心する」という言い伝えがあるためだとされている。

 このことで思い出すのが、変革・改善の手段としての「内部調整か外部調整か」という選択だ。五明紀春氏の『<食>の記号学──ヒトは「言葉」で食べる──』(2000年9月25日の日記参照)によれば、内部調整と外部調整は
  • 内部調整:システムの要素自体の自己変革
  • 外部調整:要素どうしの関係の変更
というように定義されており、会社の立て直しを例にとれば、社員教育に力を注ぐのが内部調整、無用の社員を切り捨て人事刷新をはかるのが外部調整ということになる。あるいは、明治時代には、日本食を追放して洋食化した海軍と、胚芽米の導入など日本食の改善に固執した陸軍の間で「兵食論争」というのがあったが、この場合は、海軍が外部調整、陸軍は内部調整により脚気予防の対策をはかったということになる。

 この考え方を、節分の豆まきに当てはめるならば、「鬼は外」は、
●悪者は外に追い出せ、でなければ殺してしまえ
という外部調整の発想であり、いっぽう
●鬼も改心する
というのは内部調整ということになる。

 組織内部の問題に限って言えば、日本では伝統的に内部調整により改善をはかろうとしてきた。「鬼は外」は欧米や、古代中国の発想であるように思う。

 ところで「鬼」は英語では何と呼ぶのだろうか。少なくとも、節分に出てくる「鬼」は、辞書に出てくる「demon」や「devil」とは明らかに異なり、どちらかというと、愛嬌のある存在となっている。「呪い」や「祟り」といった魔力は無く、ただ物理的に力が強いだけで、簡単に懲らしめられてしまう。野生のイノシシやクマに近い存在なのだろうか。

 そんな鬼が済む平和な島(=鬼ヶ島)を侵略し容赦なく殺戮を繰り返したのが桃太郎であった。以前、日記読みからの連想として紹介したことがあったが、桃太郎の「征伐」の正当性には疑問を抱く人も多いらしく、さまざまな「異聞」やパロディが創作されている。