じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真] 京都大学百周年記念館大ホールで行われた絹川正吉・ICU学長の基調講演(↓の記事参照)。私の記憶では、ここにはもともと、法経50番教室という500人以上を収容できる大講義室があった。
岡大の五十周年記念館多目的ホールに比べると1.5〜2倍程度の広さがあるように見えた。スクリーンがゆがんでいない(←岡大のホールのスクリーンは、巻き上げ式のためシワが出来ていて部分的にぼやけてしまう)など配慮がなされていたが、それぞれの椅子に簡易テーブルがついていないのはメモをとる際にちょっと不便に感じた(

3/24追記]
同じフォーラムに参加された方から、「椅子の肘掛けの下の部分に収納されたテーブルがあり、それを引き出して便利に使うことができました」とのご指摘をいただきました。これには気づきませんでした。貴重な情報をありがとうございました。


3月20日(土)

【思ったこと】
_40320(土)[教育]第10回大学教育改革フォーラム(1)「特色ある大学教育支援プログラム」の背景

 3月20日の午後、京都大学百周年記念館大ホールで、第10回大学教育改革フォーラム「今こそ大学教育の改善を問い直す〜COLの投げかけるもの〜」が開催された。学会年次大会参加の移動の途中ではあったが、部分的に参加させてもらった。

 さて、表記のテーマの一部である「COL」だが、これは、研究に対するCOE採択に対して「教育版COE」と呼ばれる、文科省文教政策の一環である。但し最近では、「教育COE」や「COL」に代えて「GP(グッド・プラクティス)」という呼称を使うようにというお達しも出ている。ここでも以後、「GP」と略すことにしたい。

 フォーラムでは、尾池・京大総長の挨拶、田中毎実・京大高等教育開発推進センター教授の趣旨説明に引き続いて、絹川正吉・ICU学長による基調講演が行われた。絹川氏は、このGP採択の審査の元締めをつとめておられる。

 絹川氏の講演の前半は、GPに対して寄せられた様々な批判に対する反論、後半では、戦後の大学教育における「設置基準」、「教授会自治」、そして、大綱化後の新しい設置基準の意味、さらに国立大法人化に伴う教育課程実施責任体制の問題など、大学教育の根幹に関わる話題が取り上げられた。




 さて、今年度に開始された「GP」に対してはいろいろな批判が寄せられているという。おもだったものとしては(←あくまで長谷川のメモに基づく)
  1. 外向けにアピールしやすい事例だけが脚光をあびる一方、授業への日常的な努力は評価されない
  2. 公共性(社会的使命)を重視することにより、体制順応の方向に恣意的にコントロールされる
  3. 拘束的改革である
などがあるという。絹川氏はそれぞれについて細かく反論された。

 まず、「外向けにアピールしやすいものだけが...」という批判に対しては、実績の積み重ねも対象となっていること、但し、この文教政策は、他大学でも活用できるような情報提供を目的としていること、また、教員個人の努力ではなく、あくまで組織的取組を評価するものであること、などが強調された。

 そもそも「特色」とは何か、というのは難しい概念である。岩波国語辞典で「特色」の意味を調べると

他と異なったところ。 ▽評価と関係づけて使い、他よりすぐれた点を言うのが普通。

と記されているが、もし「他との違い」が完全に固有であるなら、汎用性は出てこない。せいぜい、「あそこはスゴイなあ」と驚嘆し、「じぶんの所でも何か別のことをやってみよう」という動機づけを高める効果くらいしかないだろう。

 もっとも、「他と違う」という中身自体はマネできないものであったとしても、「他との違い」を精密に分析するツール自体は汎用性をもつに違いない。心理学においても、従来の「平均値比較による一般法則の発見」とは別に、多様性の把握や、その中での「個性」を探索するための質的研究が重視されるようになってきたが、おそらくGPの対象となる取組においても、特色を見つけ出すための方法に汎用性があれば、情報提供として十分な価値をもつのではないかと思われる。

 「拘束的改革」については後半にも取り上げられたが、戦後の国立大学の改革の流れの中では、トップダウン的な「拘束」とそれを甘受してきた大学、という構図がずっと続いてきたことは事実である。私個人は、これは、大綱や法律の問題でも、大学組織の問題でもなく、根本は、大学教員の研究・教育・組織運営活動がどのように強化されているのかという、行動随伴性の設定の問題に帰着するのではないかと考えているが、これは別の機会に述べることにしたい。

 講演の後半にふたたび強調されたのは、GPは教育活動評価ではない、評価されるとしたら、それはGPが教育政策として成功したかどうかという効果の部分についてである、という点であった(←あくまで長谷川の理解に基づく)。

 GPの採択基準が曖昧だという批判もあるが、審査基準を詳細に作れば作るほど全体像が曖昧になるという恐れがある。それよりも、審査員の大学人としての見識が反映され、採択審議のプロセスの中で評価差を収斂させていくことに意義があるのだそうだ。となると、われわれ大学人にとっては、GPとして採択された取組を参考にするよりも、審査のプロセスをできるだけ詳細に知ることのほうが有用であるかもしれない。であるなら、採択、不採択いずれにおいても、審査の過程をできる限り公開していくことが大切ではないかと思われる(個々の大学のプライバシーへの配慮?のせいか、現実には、公開されていない部分が多い)。

次回に続く。