じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
10月7日の朝5時55分ころ、一年のうちでも数回以下、と思われるほど美しい朝焼けが見られた。 写真左は農場の田んぼ越し(5時56分)写真右は散歩道の座主川沿い(5時55分)。 |
【ちょっと思ったこと】
宴会で耳学問 6日の夜、小規模の宴会があった。その席で聞きかじった知識を忘れないうちにメモしておく。あくまで酒の席での話題であり、私の記憶に基づくものなので、正確さは保証できない。
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【思ったこと】 _41006(水)[心理]血液型差別番組を考える(7)「性格論議」の3つの段階 昨日の日記の最後のところで、 ま、それはそれとして、昨今のTV番組は、学術的な議論以前の、人間の尊厳に関わる重大な問題を抱えているように思う。仮に、ある特性について血液型による違いが検証されたとして、だからといって、それをネタにして、特定の血液型者を笑いものにしたり、結婚や就職の差別をもたらす恐れのあるような番組を作ってよいものかどうかは別である。と書いたことについて、もう少し深く考えてみようと思う。 これまで血液型性格判断論議というと、 (1)Xという性格(あるいは行動傾向)に関して、血液型(ここではABO式)による有意な差が見られるか。 ということに関心が向けられてきた。この命題は、1回の調査では実証も否定もできない。統計的検定というのは常に、タイプI、タイプIIという過誤を伴うものであり、1回の調査で有意差が出たからといって、偶然による偏りである可能性は完全には否定できない。一方、有意差が出なかったからといって、関係が無いと実証できるわけでもない。科学的な研究の筋道としては、とにかく、いろいろなサンプルで調査を繰り返し、その中で一貫した傾向を見出していくことが必要である。 さて、上記(1)はあくまで学術的なレベルにおける議論である。これに対して、私が、25年以上前からずっと主張してきたのは、実用レベルにおける議論であった。2004年6月26日の日記に記したように、これは (2)実用に耐えうるような顕著な差でなければ、日常生活行動の予測や、適性や相性の診断には使えない。そんな不確かな道具は、エラーを増やし差別や偏見を助長するだけだ。 例えば、 ●血液型がY型ではXという傾向の人が55%、Xという傾向を持たない人が45%である。いっぽう、血液型がY型以外では、Xという傾向の人が45%、Xという傾向を持たない人が55%である。Y型は他の血液型に比べてXという傾向の人が有意に多い ということがほぼ完璧に実証されたとしよう。これは学術的には有意であっても、実用的にはあまり意味を持たない。ある人がY型であるという知識を持ったからといって、その人にXという傾向があると予測することはリスクが大きすぎる。そんな手間をかけるぐらいなら、血液型は無視して、ダイレクトに「Xという傾向があるかないか」を測定した方がよっぽど正確であろう。 さて、上記(1)と(2)の違いについてはこれまで何度も主張したことの繰り返しであるが、問題は、上記の比率部分が ●血液型がY型ではXという傾向の人が99.5%、Xという傾向を持たない人が0.5%である。いっぽう、血液型がY型以外では、Xという傾向の人が0.5%、Xという傾向を持たない人が99.5%である。Y型は他の血液型に比べてXという傾向の人が有意に多い となったら、テレビや雑誌で遊び気分で何でもかんでも取り上げてよいかということだ。予測力をもつという点では確かに実用的価値はあるかもしれない。しかしここでいう「実用」とは、あるニーズを持った人にとっての有用性という意味であり、良いことにも悪いことにも利用される。 例えば、上記の「Xという傾向」が「インフルエンザにかかりやすい傾向」であるならば、これは、予防上、大きな実用性をもつことになる。つまりY型に優先的にワクチンを接種すればよいからだ。 いっぽう、「Xという傾向」が「社員として使いやすい」ことにあったとすると、経営者にとっては実用性のある情報になりうるが、就職を志す者にとっては大きな差別を受けることになる。 性格検査や知能検査は、あくまで、それを受ける者自身の自己改善に役立てるために開発されたものであって、差別や選別の道具に悪用されることがあってはならない。血液型性格判断の場合も、「血液型別ダイエット」や「血液型別英語学習法」のように、自分自身の向上に役立てる目的であるならば、目くじら立てて批判するほどのことは無い。しかし、それが、他者を評価する道具として用いられることになる時には、慎重な配慮が必要である。「Y型の人はXだ」と安易に口にすることがどれだけ他者を傷つけているのか、番組制作者は真剣に反省しなければならないと思う。 |