じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真]  明け方の東の空。金星(写真の上のほうの星)に加えて、木星(同じく、下のほうの星)が目立つようになってきた。11月5日には0度36分まで接近するという。2つの星の下のねじ曲がった骨組みは、先日の台風23号の被害を受けたビニールハウス。


10月27日(水)

【ちょっと思ったこと】

自転車は左側通行を守るべし

[今日の写真]
 数日前のことであるが、大学近くのT字路で、自転車に乗った高齢の女性どうしが出合い頭に衝突し、2人とも転倒するという事故を目撃した(右図のAとB)。幸い、お二人ともすぐに起きあがり特にケガは無かったように見えた。しかし、すぐ近くには深い側溝があり、頭から落ちて重大事故につながる恐れがあった。

 このような衝突がどうして起こったのかといろいろ考えてみたが、一番の原因は、自転車Aが道路の右側を通行しており、しかも一旦停止を怠ったことにあったようだ。もしその自転車が青字のBのように左側通行をしていたら、道路の幅がある分だけ自転車Aが見えやすくなり急停止できたのではないかと思われる。

 大学周辺では、片側1車線の車道の右側を走る自転車もいるが、左側通行をしているバイクと正面衝突する可能性がありやはり危険。このほか、ケータイでしゃべりながら乗る学生、バイクに背中を押してもらいながら併走する自転車など、危険きわまりない運転をする若者も少なくない。

【思ったこと】
_41027(水)[心理]昨今の血液型論議(1)差異化とステレオタイプ化

 昨日の日記で、「ジェンダーの対象とは、「ふたつのジェンダー」ではなく差異化という行為そのもの。」という考えに言及した。これは上野千鶴子氏の『差異の政治学』で論じられているそうだが、私自身はまだ勉強不足でコメントできる立場にはない。これに関連して「差異化 ジェンダー」というキーワードで検索するといろいろなコンテンツがヒットする。中には、血液型にも言及したコンテンツもあった。

 「差異化 血液型」で検索してもいろいろなサイトが見つかった。このうち、幻想血液型人間学研究サイトでは、「架空の人物に血液型をつけてどんな意味があるか?」について興味深い考察をされていた[ ]。
11/9追記]
上記の件について「どのような点が興味深いのか」というお問い合わせをいただきましたので、追記します。私の興味は、もっぱら「血液型ステレオタイプ形成の歴史」を示す資料という観点からの興味です。開設者の御趣旨に反するかもしれませんが、「架空のキャラクターに血液型の設定をつける」ことが有用となるのは、作者と読者間、あるいは読者どうしで共通の血液型ステレオタイプが形成されている場合に限ると私は考えています。なお、これ以上の突っ込んだ内容については、いずれ時間的余裕のある時に 連載の続きとして執筆させていただく予定です。


 同じく「差異化 血液型」でヒットした栖原憲司のつぶやき試論(1999.10.31)では、各種の占いを考察するなかで、血液型占いに関して
...共同体内のルールや血縁のしがらみの論理では対応できない多様な未知の人達一人ひとりを相手に、個別に性格を読み取りそれへの対処を創出していくのはいままでの共同体的なやりかたでは殆ど不可能に近い。「血液型」は本来多様であるはずの他者をたったの四つに類型化し、それぞれの行動特性と対応方法を教える。未知の、時として不気味な他者に出会っても、血液型さえ判れば既知の四つのパターンのどれかとして理解可能な存在となり、また四つの対応法のどれかをとれば相手は安心な存在になるのだ。
「血液型」は未知のコミュニケーション領域に臨んで竦んでしまった日本人に与えられた、一時しのぎの便法だった。
仮説的な、バーチャルなコミュニケーションメソッドとはいえ、かつてのコミュニケーション様式に変わるスキルがこれ以外に存在しなかったために、恐ろしい勢いで血液型は「常識化」していくことになった。皆が信じれば「本当のこと」として流通してしまうのだ。自分や相手を血液型によって理解し対応する、という現在普通になった思考法はこうして「都市化した社会」の成立と深く関係している。
と論じておられる。もっともこの考察は1970年代に大ブレイクした血液型占いについて論じたものである。「赤信号みんなで渡れば怖くない」ならぬ「血液型、みんなで叫べば怖くない」のごとく、この半年余りのあいだに、大民放各局がこぞって血液型ネタを取り上げている現象までは説明できていないように思う。




 さて、「差異化」というと、漢字上の意味から、なんとなく、

●本来同じに扱うべき対象を違うように扱う

という意味に捉えがちであるが、実際はゼンゼン違う。血液型に関して言えば、

●本来多様な対象を、無理やり類型化して、同じものとして扱う

というところに本質的な問題がある。つまり、類型化することは差異化であるが、類型されたあとの集団内部ではむしろ多様性が否定され、ステレオタイプ化が進められるのである。

 このことは、統計的検定によって血液型性格判断の正しさを検討しようという議論にも大きくかかわってくる。統計的検定それ自体は現象の多様性を否定するツールでは決してない。しかし、実際に有意性を検定する時には、多様な要因のうちの1つだけに注目して、平均や比率の差が偶然の範囲を超えるものかどうかを計算するのである(←多変量解析についてはここでは触れない)。この日記では
  • レベル1:統計的には有意であるが実用的には役に立たない程度の僅かな差
  • レベル2:実用的価値があるほどの顕著な差
  • レベル3:生まれつきの属性(性別、血液型、人種など)と結びつけて他人を判断してしまうことの不当性
という3つのレベルにおいて血液型論議が必要であることを繰り返し主張してきたが、レベル2における議論では、単純な有意差検定は必ずしも有用なツールにはなりえない。なぜなら、統計的検定それ自体は、多様性の存在を積極的に肯定しないからである。

 もちろん多様性といっても、ただ「いろんな違いがあります」という消極論ではダメだ。多様性の原因となる諸要因とそれら相互の関係を明らかにし、その法則化で、行動の予測や制御が何%可能になるのか、実績を示していく必要がある。それが100%に近づけば、他の無用な要因は必然的に排除される。血液型論議も最終的には、「そんなものウソだ」ではなく、「そんなもの不要だ」という形で排除されていくべきものかと思う。