じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
ミモザのつぼみがふくらんできた。もっとも昨年3月4日の写真に比べると、明らかに開花が遅れている。今年の冬は寒い。 |
【ちょっと思ったこと】
肺癌は怖い オーバードクターの頃にたいへんお世話になっていた某研究所の教授が、御定年を前にして肺癌で亡くなられた。少し前に、ご病気のため御退官記念行事がキャンセルになったという知らせが届いたのでご事情はある程度拝察していたが、まことに残念なことになった。 肺腫瘍と言えば、先月も、学部時代の同級生が肺癌で亡くなったという知らせを受けてショックを受けていたところであった。 肺癌と喫煙に因果関係があることはしばしば警告されているところであるが、じっさい、このお二人とも、私の知る限りではかなりのヘビースモーカーであった。タバコを吸えば直ちに肺癌というわけではなく、体質や生活環境の違いもかなり影響するとは思うが、何はともあれ、吸わないにこしたことはない。合わせて、他者の煙を吸い込まないよう、受動喫煙防止の徹底を求めていきたい。 |
【思ったこと】 _50303(木)[教育]アカハラ講演会 学内で行われたアカデミック・ハラスメント(アカハラ)防止のための講演会に出席した。 全国の大学で、セクハラ、アカハラ事件が問題となっているが、そもそもアカハラとはなにか、ということについて共通理解が無い。そこで、某大学のハラスメント相談室教授を招き、防止につとめましょうという趣旨の企画であった。 講演ではまず、権力を利用した嫌がらせであるパワーハラスメント一般についての定義があった。このうちセクハラという言葉は、1989年の福岡セクハラ裁判を契機に世間に知られるようになり、その年の流行語大賞にもなった。但し当初はマスコミによる揶揄的な取り扱いが多かったという。いっぽう、アカハラは、『キャンパス性差別事情―ストップ・ザ・アカハラ』(1997年、上野千鶴子・編集)を契機に使われるようになったという。なお英国では「bullying」という言葉のほうが使われているそうだ。 学校でのセクハラについて文部省(当時)が調査に乗り出したのは1998年以降であったという。但し、この場合の調査というのは、セクハラの有無についての調査ではなく、各教育機関がセクハラにどう取り組んでいるかを調べたものであったらしい。いっぽうアカハラについての統一的な定義は無いが、某大学では「そのほかのハラスメント」として セクシャル・ハラスメントにはあたらないが、一定の就学・就労上の関係にある大学の構成員が、相手の意に反する不適切な言動を行い、これによって相手が、精神的な面を含めて、学業や職務遂行に関連して一定の不利益・損害を被るか、若しくは学業や職務に関連して一定の支障が生じること、又はそのようなおそれがあることをいう。というように定義され、その中にアカハラを含めているということであった。 さて、アカハラというと、教授と大学院生の間で生じるケースが一般的であるように思われがちであるが、実際には、先輩院生から下級生に対するアカハラというのも多いらしい。確かに、今の世の中、大学教授の仕事は多忙をきわめ、院生を個別に指導する時間はきわめて限られている。その場合、ゼミ内の院生・学部生間の縦のつながりによるサポートが重要な役割を果たすわけだが、万が一そこでアカハラが起こっても、指導教授にはなかなか把握できない。一部の体育系サークルにありがちな上下関係など持ち込むと、たちまちアカハラの事案になりそうだ。 ひとくちにアカハラと言っても、問題レベルと責任レベルは3段階に分けられる。まず、社会的・道義的問題のレベルにおいては、謝罪。雇用管理上の問題レベルでは、服務規律違反による懲戒、さらに法律にふれるような問題レベルとなれば、刑事・民事責任を問われることとなる。 セクハラやアカハラが起こった場合の措置としては、加害者への処分ばかりが注目されてしまうが、いちばん大切なのは、被害者の被害回復と、その後のサポート体制の確立である。セクハラやアカハラの場合、プライバシー保護の観点から、具体的な事例が詳細に紹介されることは稀である。サポート体制の事例も同様である。このあたりが、どうしても、一般的な議論に終始し、抽象的な防止策の確認に終わってしまう一因になっているように思われる。 このほか、大学院生や学部生への指導で難しいのは、当人の研究能力上の限界を指摘して進路変更をアドバイスすることが、アカハラとして受け止められてしまうケースである。理系の研究プロジェクトなどでは、個人個人が任務を着実に遂行しなければ成果は上げられない。その際には、必要に応じて配置換え、場合によってはメンバーから外すという措置も必要になるだろうが、当人を十分に納得させないとアカハラとして受け止められてしまう。 このほか、あまり親身に指導することも弊害をもたらす場合がある。 一口にはなかなか表しにくいが、コミュニケーションを密にしつつ、当人の主体性と自発的な判断を最大限に尊重するということが最善の防止策になるのではないかと思う。 |