じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
朝顔というと、5月中旬に種を蒔いて大事に育て、夏休みに毎朝花が咲くのが楽しみな園芸植物であるが、繁殖のスピードが限界点を超えると留まるところを知らず、あらゆる樹木に絡まりついて雑草化してしまう。
写真左は、サルスベリを覆う普通の朝顔。写真右は、この日記でも何度か写真を掲載している宿根朝顔。ビワの木のてっぺんに花を咲かせている。 |
【思ったこと】 _50905(月)[一般]小野田寛郎さんの3人分の人生(1) 9月3日午後に録画しておいた、NHK総合: ●「生き抜く」〜小野田寛郎〜83年の人生を自ら語る を一通り見終えることができた。この放送は8月11日にハイビジョン特集で放送されたものの再放送であったようだ。 小野田寛郎さんというと、フィリピン・ルバング島から帰還された時のことは鮮明に記憶しているが、ブラジルに移住された後の生活の事は全く知らなかった。私が長年疑問に思っていたのは
私の第一の疑問、なぜ敗戦を知りつつ29年間も戦い続けたのかという点であるが、そもそも小野田さんは、日本がいったん降伏するということを想定した上で1944年12月にルバング島に着任していたらしい。陸軍中野学校というのは、当時としては考えられないほど自由に意見を交わすことができ(←天皇制について語ることもできたらしい)、また、軍司令部が把握している正確な情報は着任時点で漏らさず伝えられたという。要するに、情報将校というのは、誰からも監督されず自分一人だけで行動しなければ任務を果たせない。強圧的な命令や薄っぺらい洗脳教育ではダメ、あくまで自分自身で判断し納得して行動するように教育を受けた。その際に最も大切にすべきものは「民族」であったようだ。 小野田さんの任務は、「残置諜者」および「遊撃指揮」ということであった。これは、日本がいったん降伏して傀儡政権が誕生してもいずれ反撃に出る、その時に役に立つような活動を続けるということであったが、あたかもそれに符合するかのように、戦後何年かたつと、フィリピンの基地から米軍機が頻繁に発着するようになる。実際は、朝鮮戦争やベトナム戦争が起こっていたわけだが、小野田さんの目にはこれが、日本の反撃の証拠であるように映ったようだ。 もっとも、1970年以降の捜索に対してなかなか姿を現さなかった理由は別の所にあったようだ。時間が無くなったので次回に続く。 |