じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
大きな穂の植物。種名は不明(掲示板などで、お教えいただければ幸いです)。大きな箒で青空を掃いているようにも見える。
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【ちょっと思ったこと】
2005年度後期に突入 今年の9月は各種学会に参加したり、いろいろ本を読んだりしたこともあって、けっこう長く感じたのだが、いよいよ10月に入ってしまった。 前期に比べると楽になるかと思っていたのだが、分担授業がいろいろあって、けっきょく、毎日、1コマから3コマの授業を受け持つことになった。修論、卒論も大詰めとなり、かなり忙しくなりそうだ。 早朝の散歩をしていて気づいたのだが、近くのお寺(妙善寺)の鐘を鳴らす時刻が、10月から30分遅くなった。このお寺は、真夏には5時に、また9月は5時半に鐘を鳴らしていた。このところ日の出の時刻が遅くなり、5時半ではまだ薄暗い。 クールビズは9月30日で終了し、公式行事では10月からは背広ネクタイ着用が標準になるものと思うが、まだまだ残暑が続いている。10月2日の最高気温は東京や大阪では30度の予想となっている。上着着用ではまだまだ暑すぎる。 |
【思ったこと】 _51001(土)[心理]社会構成主義と心理学の新しいかたち(6)関わりあり。ゆえに我あり/“心を内蔵した肉体” 9月28日の日記の続き。前回も指摘したことであるが、いくらおしゃべり好きな人間にとっても、「事実」は語られるばかりではない。「語る」こと以前に、我々は、物理的世界に能動的に関わり、そこで一定の行動を形成し、そのことに基づいて「語っている」のである。また、語ることはしないが、人間以外の動物たちも、それぞれのやりかたで物理世界と関わり、適応し、子孫を残しているのである。物理的世界のとらえ方についての社会構成主義の主張は基本的には正しいと思うが、「語る」ことを偏重する以前にまず、そういう「語り」がいかなるプロセスで構築されていくのかを分析していく必要がある。 Gergen(1994)は序文の中で、デカルトの「我思う、ゆえに我あり Cogito ergo sum」は正しくは「言説あり、ゆえに我あり communicamus ergo sum」と言い換えなければならないと説いているが、以上見てきたように、言説で知られる世界はごく限定されたものであり、また、環境世界は人々の関係性のプロセスの中でのみ構成されるものではない。そういう意味では、デカルトの格言の最初の部分は「我思う」でも「言説あり」でもない。正しくは「関わりあり。ゆえに我あり」とすべきでである。ここで「関わる」のは他者ばかりではない。空気や水、植物や動物、人口建造物などすべてが含まれており、まずは、それらとノンバーバルに関わる。そうしているうちに後から言説が生まれてくると考えるべきだ。操作可能な環境世界と行動随伴性に基づく分析こそが社会的に構成されるプロセスを明らかにできるであろう。 以上の「我あり」に関して杉万(2005)は、社会構成主義の立場から 通常、われわれは、人間といえば、皮膚で画された肉体、しかも、その肉体の内部のどかに、何かを感じたり考えたりする心(精神)を有する肉体をイメージする。一言で言えば、人間とは、「心を内蔵した肉体」であるという人間像を、われわれはもっている。と指摘し、さらに「内界−外界」パラダイムを棄却している。 いっぽう行動分析学の創始者であるスキナーは以下のような語録を残している。 日本行動分析学会第23回年次大会(2005.7.29.〜7.31.、常磐大学)大会実行委員会企画シンポジウム: ●司法において心理学に期待されるもの、「罰なき社会」の探求(What is expected of science of behavior in judicial field, search for a non-punitive society.) における佐藤方哉氏の話題提供に基づく。
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