じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
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散歩道で見かけた子猫3きょうだい。毛色にバリエーションがあるところが面白い。
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【思ったこと】 _61005(木)[心理]日本教育心理学会第48回総会(12)対話的自己論(5)「同じ」とは何か? ●対話的自己論(The Dialogical Self)の適用・発展可能性 というシンポの感想の最終回。 指定討論の2番目に登場された社会学者TA氏は、
あくまで私が理解した範囲での議論になるが、ポジションの変化とか移動とか言う時には、何が同じなのかを明確にしておく必要がある。見方次第では、対話的自己論も一元論的な自己論に陥ってしまうということが第一の論点。また3.はTA氏が御著書の中でも繰り返し論じておられる論点であった。 第一の論点に関して、TA氏は、登壇者に配布されているミネラルウォーターのボトルを手に持って、このボトルがここからここまで動かされるのは「移動」。しかし、それが別の物に変わってしまった場合は移動とは言わないと論じられた。 これは私にとっては大変示唆に富む御指摘であった。我々は日頃、「同じ」とか「違う」という言葉を当たり前のように使っているが、自己論やアイデンティティを議論する際には、もう一度このことについて意思統一をはかっておいたほうが良さそうだ。SM氏の話題提供の中でも“アイデンティティそれ自体は「同一」という意味しか持たない。主体も客体も無い”というようなことが言われていたが、さらに遡って「同一とは何か?」についても考えてみる必要がありそうだ。 私自身は、「同じ」というのは事物の「本質」ではなく、あくまで、人間がニーズに合わせてこしらえた概念であると考えている。要するに
では、「同じ」は全くの主観的判断、あるいは価値観によって変わるモノかと言われれば、それはまた違うと思う。判定基準そのものは客観的であり、いったんその基準を受け入れた後では、「同じか違うかは主観の問題だ」というような主張は成り立たなくなる。 例えば、財布から2枚の10円玉を取り出して、これは同じか?と議論したとしよう。しかし、この時点では判定基準も定まっておらず結論は出せない。つまり
2.に関して言えば、連続して存在し続けるモノは、たとえ形や中味が変化していても、「同じ」と判断される場合がある。1匹のイモムシがサナギ、蝶というように変化しても、それは同じ個体として扱われる。余談だが、マジックというのは、常識的な連続性を覆す度合いが大きいほど拍手喝采を浴びる。 三省堂『新明解』では「同じ」は 二つ(以上)のものについて、比較しようとする問題の点に関して少しの違いも認められず、別のものだととらえる必要(理由)が無いと判断される様子だ。と定義されている。この「別のものだととらえる必要(理由)が無い」というくだりは、上記の「ニーズ」ということと同様であり、大いに納得できる。 もっとも、『新明解』では、定義上、2つ以上のモノが無ければ「同じ」とは判断できないことになる。しかし、まずは1つ1つのものが安定的に存在し、1つのモノは一定期間以上「同じ」であり続けるという前提が必要である。 1つのモノだけについて議論する時には「同じ」ではなく「同一性」という言葉が使われることになるんだろうが、これはこれでややこしい。 ということで完全に脱線してしまったが、このシンポについての感想は以上を持って終わりにしたい。 次回は最終日(9月18日)に行われたシンポについて感想を述べることにしたい。 |