じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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[今日の写真]
1月7日付けの楽天版じぶん更新日記にも写真を掲載したように、1月7日の午前中、岡山市内でこの冬初めての積雪があった。写真上は時計台前、写真下は半田山方面。写真右上の円内は、黒正巌先生の横顔。お顔の右後ろ側(北西側)のみ着雪している。



1月7日(日)

【思ったこと】
_70107(日)[心理]新年早々に「あの世」を考える(3)老死の価値中立性/「四諦」とは何か

ひろさちや氏の

●仏教に学ぶ老い方・死に方(新潮社、ISBN4-10-603542-1)

の感想の3回目(実質2回目)。今回は第1章で取り上げられた話題について私なりの考えを述べるようにしたい。

 第1章では、老いを怖がることや、「老い」のマイナスイメージについて語られている。ひろさちや氏の論点は、
  • 老いに対するマイナスイメージは、人間の価値を商品価値でもって評価される社会において顕著である。そこから「生涯現役」の発想が出てくる。
  • サルトルの「老いとは他者の侵入である」という言葉に象徴されるように、キリスト教文化では、老いは外因性であると捉えられている。
  • 仏教では老死は万人性があり、内在的不可逆的であり、価値中立である。要するに、老死はいいもの(プラス価値)でも悪いもの(マイナス価値)でもなく、中立的・無記的なもの。
  • 現代日本で老死が社会問題となるのは、家族の崩壊に原因がある(老死の家族性)。
であると、私なりに理解できた。これらはほぼ納得できるお考えである。

 人間は普通は死を恐れるが、それは個体保存のために備わった性質であって、老死まで恐れることを前提としていない。もし人間という種が若い時から死を恐れない動物であったら、というか、危険を顧みず、怪我をしても何も感じず、病気にかかってもそれを治そうとしない動物であったなら、とっくの昔に絶滅していたに違いない。自分の生命を守ろうとする性質を備えていればこそ、種を繁栄させることができたのである。しかし年老いて死ぬことはもはや種の存続には悪影響を与えない。動物によっては交尾や産卵と同時に死を迎える種もあるが、その場合にはむしろ、ポジティブに捉えられるべきであろう。人間の場合は、高齢者の知恵や祖母の育児が種の存続を促進したという学説もあるようだが、とにかく個体レベルで見た時に、老死をマイナスに捉えるべき理由はどこにもないと言ってよいだろう。




 さて、もとの第一章に戻るが、仏教の「四苦八苦」とは、よく知られているように、これは根源的な苦しみである四苦と、追加される苦しみから構成される(苦に関する原理「苦諦」。
  • 生苦
  • 老苦
  • 病苦
  • 死苦
  • 愛別離苦(あいべつりく)
  • 怨憎会苦(おんぞうえく)
  • 求不得苦(ぐふとくく)
  • 五陰盛苦(ごおんじょうく)
 となると仏教でも「老」や「病」や「死」を「苦」であると考えているように思われがちであるが、ひろさちや氏によれば、ここでいう「苦」とは、サンスクリット語の「ドゥフカ」あるいはパーリ語の「ドゥッカ」の訳語であり、原語には苦しいという意味は無い。あくまで「思うがままにならないこと」という意味だということであり、苦の原因は、「思うがままにならないものを思うがままにしようとする心」にあるのだという。そこから、苦の原因に関する真理としての「集諦(じったい)」、苦の原因の滅に関する真理「滅諦」(但し、「滅」というのはサンスクリット語の「ニローダ」であり、「コントロールする」という意味だとか)、苦の原因の滅の方法に関する真理「道諦」という考えが出てくる。

 ここで突然、行動分析学的に勝手に解釈してみると
  • 人間や動物は、レスポンデントとオペラントという2つのタイプの行動を通じて外界と関わる。
  • オペラントは外界に能動的に働きかける行動であるが、そこには限界がある。物理的制約、時間的制約、偶発的要因などなど。その困難性が「苦」をもたらす。
  • 「滅諦」とは、困難性をわきまえた上でのセルフコントロールのあり方についての考え
  • 「道諦」はセルフコントロールの方法についての考え
ということになろうかと思う。しかし仏教の基本教理が「四諦」であり、その中味が「思うがままにならないことの仕組みを理解し、それについての適切な対処方法を確立すること」であるとすると、なんだか、宗教というよりもセルフコントロールの一理論のようにも思えてくるが、勉強不足のため、何とも言えない。

 いずれにせよ、オペラントや強化という概念を入れて考えると、「欲」とは何かについての考えもずいぶんと変わってくると思うのだが、このあたりの話は次回以降で。