じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
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文学部西側出口付近の植物。ヒルザキツキミソウ、フランスギク、オオキンケイギク、シロタエギク、各種ラベンダー、オステオスペルマム、宿根スイートピー、ダンチク、三尺バーベナなどが見られる。 この空き地と、後ろの半田山の間には、実際には駐車場、道路、民家などがあるのだが、このアングルから撮ると、半田山までずっと斜面が続いているようにも見える。 |
【思ったこと】 _70519(土)[心理]ピーター・フランクル「過程を楽しむ人生」 5月20日(日)の5時半すぎにテレビのスイッチを入れたら、 ●テレビ寺子屋:第1532回 過程を楽しむ人生 という講演をやっていた。講師はおなじみのピーター・フランクル氏であった。ちなみに、この番組の放送日は、各地の放送局によって異なっている。詳細はこちらを参照されたい。 講演の要旨は、こちらに記されている通りであるが、印象に残った部分を私なりにまとめると、
ご講演の趣旨は大体賛同できる内容であったが、過程とか結果ということについては、もう少し詳しく分析する必要があるのではないかと思った。
過程が手段化するに伴って、好きなはずのことが嫌いになってしまうというのは、行動分析学的に言えば、
行動分析学の創始者のスキナーも Happiness does not lie in the possession of positive reinforcers; it lies in behaving because positive reinforcers have then followed. [行動分析学研究、1990, 5, p.96.]と語っているように、生きがいの本質は、手にした結果ではなく、行動のプロセス自体にある。但し、いかなる結果も全く伴わない行動というのは原理的にはあり得ない。プロセスの途中で結果が適切に伴ってこそ、その行動は維持されていくのである。 一般論として、「過程を楽しむ人生」は大切なことだと思うが、より高度な過程を楽しむためには、それを実現する手段がやはり必要である。高等数学の難題を解く楽しみを得るためには、小中学校における算数や数学をみっちり学んでおく必要がある。その場合、最初から算数を学ぶのが楽しいという子ども(←たぶん、ピーター・フランクルさんはそういうタイプ)なら放っておいてもいいのだが、中には、受験勉強の手段としてより高度な数学を学び、それを理解できるようになった段階で初めて数学の面白さが分かってきたという生徒だって居るはずだ。 これはスポーツでも同様。草野球を楽しむという範囲で野球をやっている限りはそれほど上達しないが、甲子園に出るという目標のもとに練習に励めば、結果として、高度なレベルでの野球の醍醐味を味わえるようになるかもしれない。 冒頭部分の主張に戻るが、「過程を楽しむ」というのは、行き当たりばったりの刹那的な楽しみとは異なる。「過程」というのは目標によって方向づけられるものであり、短期か中期か長期かという区別、あるいは入れ子構造によって位置づけはさまざまに異なるとはいえ、とにかく、手段化を100%排除するということは不可能。 重要なことは、「目標のために手段を選ばず」という効率優先主義ではなく、「手段」の質を重視し、どういう「手段」を選べば、能動的な行動とそれに伴う成果が期待できるのか、また、それを遂行したことで、次のステップにつながるような向上つまり「じぶんの更新」がどこまで得られるのかを見極めることであろう。 |