じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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[今日の写真]

 文学部西側出口付近の植物。ヒルザキツキミソウ、フランスギク、オオキンケイギク、シロタエギク、各種ラベンダー、オステオスペルマム、宿根スイートピー、ダンチク、三尺バーベナなどが見られる。

 この空き地と、後ろの半田山の間には、実際には駐車場、道路、民家などがあるのだが、このアングルから撮ると、半田山までずっと斜面が続いているようにも見える。



5月19日(土)

【思ったこと】
_70519(土)[心理]ピーター・フランクル「過程を楽しむ人生」

 5月20日(日)の5時半すぎにテレビのスイッチを入れたら、

テレビ寺子屋:第1532回 過程を楽しむ人生

という講演をやっていた。講師はおなじみのピーター・フランクル氏であった。ちなみに、この番組の放送日は、各地の放送局によって異なっている。詳細はこちらを参照されたい。

 講演の要旨は、こちらに記されている通りであるが、印象に残った部分を私なりにまとめると、
  1. それなりの結果を出せたとしても、その過程である勉強が嫌いというの学生が多い。
  2. 大学の先生はみな勉強が好きなはず。別に難関大学に入らなくても、勉強が好きな学生なら、どの大学に入っても、学問の面白さを教えて貰える。一流の数学者は、必ずしも難関大学を卒業していない。
  3. 勉強が嫌いになるのは、過程ではなく結果を重んじるから。今の世の中では、勉強は、入試に合格する、といった目的達成の手段になっている。手段である限りは、好きになれない。
  4. 勉強する過程を好きになれば上達するのも早い。
  5. 人生の最終結果は「死」である。結果だけを考えていたら、人生は楽しめない。
というようになるかと思う。

 ご講演の趣旨は大体賛同できる内容であったが、過程とか結果ということについては、もう少し詳しく分析する必要があるのではないかと思った。
  • 「過程を楽しむ」というのは、行き当たりばったりの刹那的な楽しみとは異なる。「過程」を言うからには、普通は、何らかの目的があり、その達成をめざして方向づけられる(但し、目的といっても、長期的、中期的、短期的な目標、あるいは暫定的な目標というのもあり、途中で軌道修正されることも多い)。
  • ひとくちに「結果」と言っても、何年後、何十年後に現れる最終結果もあれば、過程のそれぞれの段階でついてくる、小さな達成という結果もある。
  • ひとくちに「結果」と言っても、
    1. その行動自体に伴って生じる結果(ジョギングを例にとれば、体を動かすこと自体に伴う結果)
    2. その行動によって自然に得られる結果(ジョギングの最中に目に入ってくる風景)
    3. 第三者によって付加される結果(毎朝ジョギングを続けていて立派ですねえ、といった第三者からの賞賛)
    4. 手段として遂行した場合の成果(マラソン大会での記録向上、体脂肪減少など)
    というようにいろいろなタイプがある。今回の講演では、1.と2.が「過程を楽しむ」タイプの結果、4.は手段化として否定的に捉えられていたようだが、4.のような目標を付加することで、日々の向上や記録更新といった新たな結果が付加され、行動を維持するための動機づけとして有用に働く場合もあるとは思う。
  • 要するに、過程とか結果といっても一直線上に並ぶような単純な配列ではない。過程も結果も複合的であることに加えて、長期的な過程の中には、中期的な過程と結果が入れ子構造に入っており、さらには、またまたその中に、短期的な過程が入れ子になっているのである。

 過程が手段化するに伴って、好きなはずのことが嫌いになってしまうというのは、行動分析学的に言えば、
  1. 関与する行動随伴性の変化:好子出現随伴性から、好子消失阻止の随伴性に転換することによる義務感
    「毎朝、ジョギングをすれば、朝の美しい景色が見られるし、適度の疲労および疲労からの回復感が伴う」という好子出現随伴性から、「ジョギングをサボると、次のマラソン大会で入賞できなくなる」、つまり「行動しないと好子が消失する」という好子消失阻止の随伴性が働くようになることによって生じる義務感が、嫌いにさせてしまう。
  2. 行動が手段化すると、行動を形成する種々の要素のうち、特定部分が分化強化され、特定部分は分化弱化されるようになる。このことによって、従来は自然に随伴していたような結果が失われてしまい、楽しみが減る。
    ジョギングが「マラソン大会入賞のための練習」という形で手段化すると、フォームの改造、スピート維持、より長い距離、坂道のアップダウンを含めた練習、,,,というように、走り方やコースを目的に合わせて変える必要が生じる。また、どんなに美しい風景の中を走っても、タイムを計るためのストップウォッチにしか目をむけなくなる。これらによって、従来、自然に伴っていた結果の随伴が失われてしまい、楽しみが減る。
などの変化によってもたらされるのではないかと考えられる。




 行動分析学の創始者のスキナーも
Happiness does not lie in the possession of positive reinforcers; it lies in behaving because positive reinforcers have then followed. [行動分析学研究、1990, 5, p.96.]
生きがいとは、好子(コウシ)を手にしていることではなく、それが結果としてもたらされたがゆえに行動することである
と語っているように、生きがいの本質は、手にした結果ではなく、行動のプロセス自体にある。但し、いかなる結果も全く伴わない行動というのは原理的にはあり得ない。プロセスの途中で結果が適切に伴ってこそ、その行動は維持されていくのである。

 一般論として、「過程を楽しむ人生」は大切なことだと思うが、より高度な過程を楽しむためには、それを実現する手段がやはり必要である。高等数学の難題を解く楽しみを得るためには、小中学校における算数や数学をみっちり学んでおく必要がある。その場合、最初から算数を学ぶのが楽しいという子ども(←たぶん、ピーター・フランクルさんはそういうタイプ)なら放っておいてもいいのだが、中には、受験勉強の手段としてより高度な数学を学び、それを理解できるようになった段階で初めて数学の面白さが分かってきたという生徒だって居るはずだ。

 これはスポーツでも同様。草野球を楽しむという範囲で野球をやっている限りはそれほど上達しないが、甲子園に出るという目標のもとに練習に励めば、結果として、高度なレベルでの野球の醍醐味を味わえるようになるかもしれない。

 冒頭部分の主張に戻るが、「過程を楽しむ」というのは、行き当たりばったりの刹那的な楽しみとは異なる。「過程」というのは目標によって方向づけられるものであり、短期か中期か長期かという区別、あるいは入れ子構造によって位置づけはさまざまに異なるとはいえ、とにかく、手段化を100%排除するということは不可能。

 重要なことは、「目標のために手段を選ばず」という効率優先主義ではなく、「手段」の質を重視し、どういう「手段」を選べば、能動的な行動とそれに伴う成果が期待できるのか、また、それを遂行したことで、次のステップにつながるような向上つまり「じぶんの更新」がどこまで得られるのかを見極めることであろう。