じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
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5月31日の早朝、散歩道でカラスの大群を目撃した。カメラには収まりきれていないが、総数は70羽以上にのぼった。これほどの数のカラスがなぜこの場所に集合したのかは不明。なお6月1日早朝にも同じ場所にカラスが居たが、その数は20羽以内であった。右下は、食い荒らされた生ゴミ(収集日前夜に違法に捨てられたゴミ)。生ゴミがこの場所にカラスを引き寄せていることは間違いない。 |
【思ったこと】 _70531(木)[教育]第55回中国・四国地区大学教育研究会(4)学生中心の意味/一般教育の語源 昨日に続き、 寺崎昌男氏による ●学士課程教育の課題と教養教育〜FD義務化を目前にして考える〜 のメモと感想を述べさせていただく。 昨日も述べたように、新しく認可・設置された学部の呼称には「ディシプリンから」よりも「課題から」創られたものが多いという。伝統的な「一文字」学部(文、法、理、工、医、薬、農、など)と、新しく創られた課題型学部のどちらがが生き残るのか、あるいは棲み分けられていくのか、といった問題は、結局のところ、受験生の選択と、社会がそれらの卒業生をどう受け入れるのかにかかっている。課題型学部の場合は、将来的に研究者をめざせるのか、その場合、どういう大学院を選べるのか、どういう学会で研究発表できるのか、といった困難があるようにも思う。もっとも、おそらくそういう学部の教員の多くは、大学の中で再生産されるのではなく、社会で活躍している人を抜擢する形で採用されていくものと思われるので、その分、活気にあふれているかもしれない。 それはそれとして、学部新設や呼称における議論と、教養科目のあり方が「ディシプリンからか、課題からか」という議論は必ずしも結びつかない点にも留意する必要がある。課題型学部において、ディシプリン伝授型の授業が多数開講されることもあるし、逆に、伝統的なディシプリン重視学部において、課題解決、課題探求、総合型の演習が組み込まれることもある。私のところは、ディシプリン重視型学部であるので、後者をどう推進するかが課題となっている。 さて、次に寺崎氏は、「授ける」から「学ぶ者の側から」へと発想を転換させることの重要性を説かれた。この視点については、ディスカッションの時にも再度とりあげられたが、
ディスカッションではこのほか、参加者が記入した質問・意見シートに基づいて、「FDの義務化とは、誰のための何を目的にした義務化なのか?」、「一般教育の“一般”とは何か?」といった話題が取り上げられた。 FDの義務化は、職業倫理の問題なのか、設置基準を守っているかどうかの点検なのか、設置者の経営者責任なのか、(国立大学法人の場合)対国家義務なのか、といったいろいろな考えがあるが、結局は、FDをやったことでどういう成果を出したかが問われているというような回答であった(←以上、すべて長谷川の記憶に基づくため不確か)。単に分厚い報告書をまとめたというだけではダメということだろう。 「一般教育」の「一般」というのは、寺崎氏の解説によれば、1946年3月、GHQの要請により米国教育使節団が来日した時に「general education」という言葉が使われたことに端を発しているらしい(←長谷川の聞き取りのため不確か)。但し、当時はこれに相当する訳語が無かったという。その後「一般教養科目」、さらに「一般教育科目」という呼称が使われるようになった。学生がたまに使う「パンキョウ」もこのあたりに由来するようだが、私の大学では、現在は「教養教育科目」が正式呼称であり、教室のある建物の呼称だけがなぜか「一般教育棟」となっている。 「general education」は、米国1920〜30年代の「General Education Movement」に関係があるというようなお話もあったが、このあたりは勉強不足でよく分からなかった。また「Liberal Education」とは「人間をLiberateする」という意味であり、ヨーロッパの「Libeal Arts」とは異なり、「課題を見つけ出す総合学習」的な特徴を備えるというようなお話もあったが、この部分も私自身の勉強不足のため、よく分からない点が多い。というか、現実には「教養教育のあり方」は、起源や思想に遡った議論ではなく、現代社会において何が求められているかという観点から議論されることが多く、そういうことまで考えをめぐらす機会が無かったという事情がある。 次回に続く。 |