じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
【思ったこと】 _80123(水)[心理]「しなければならないことをする」と「したいことをする」(1) 教養科目の授業で、スキナーの「罰なき社会」という講演録(※)を紹介した。 [※]Skinner, B. F. (1979). The non-punitive society. Commemorative lecture, Keio University, September 25. [「罰なき社会」という佐藤方哉氏の邦訳付きで『三田評論』8・9月合併号に掲載され、『行動分析学研究』1990年第5巻、87-106.に転載] この講演録についてはこのWeb日記で何度も引用しているところである。スキナーの著作は他にも多数あるが、
この講演録の最後のほうには、 実験的行動分析学は、幸福に欠くことのできない条件を明らかにすることによってこの探究に手をかすことができます。罰からの逃避ないしは回避によってなにかをするときには、我々はしなければならないことをするといいます。そして、そういったときには幸福であることはまずありません。その結果が正の強化をうけたことによってなにかをするときには、我々はしたいことをするといいます。そして、幸福を感じます。幸福とは、正の強化子を手にしていることではなく、正の強化子が結果としてもたらされたがゆえに行動することなのです。という部分がある。但し、「幸福とは、正の強化子を...行動することなのです」は、授業中で採用している用語に配慮し、「生きがいとは、好子(コウシ)を手にしていることではなく、それが結果としてもたらされたがゆえに行動することである」と言い換えるようにしている。 さて、スキナーが理想としたような「罰なき社会」が本当に実現可能であるかどうかについては、行動分析学者の中でも異論が出されている。「しなければならない」ことは無くしていったほうがよいのか、それともセルフコントロールとして主体的に活用する限りにおいてはむしろ有用ではないか、といった指摘もある。 しかし、重要なことは、スキナーの行動随伴性の概念によって初めて、
スキナーによれば、「したい」とか「しなければならない」というのは、それぞれの行動にもともと備わった性質ではない。例えば、同じ数学の問題を解くという行動であっても、ある条件のもとでは「問題を解きたいから解く」となり、ある条件では「解かなければならないから解く」ということになる。その違いは、行動自体の属性ではなく、行動とその結果の関係によって規定される行動随伴性の違いに起因している。 それから、これはスキナー自身の言葉では必ずしも明らかではないが、1つの行動は、通常、複数の行動随伴性の影響下にあり、100%「したい」行動とか、100%「しなければならない」というようなケースはきわめて稀であると言ってよい。というか、その割合は時間と共に変化するし、また、短期的にもたらされる結果と、やがてもたらされる結果の間で食い違う場合もある。 例えば、最初は「好き」で始めたピアノであっても、ピアニストとして身を立てるようになれば、「しなければならない」ハードな練習が要求されるようになる。力士は基本的には相撲をとりたいと思っているだろうが、番付を維持するための稽古を怠るわけにはいかない。これも「しなければならない稽古」である。 受験勉強は「しなければならない」行動であるが、部分的には、問題を解く楽しみをもたらす。どんな受験生でも1つや2つの科目は、学びたいから学ぶ科目になっているはずだ。また、受験勉強は、短期的には「勉強しなければ不合格になる」という阻止の随伴性で維持されているが、長期的には、合格し、大学に入ってから興味のある学問を学べるという好子出現の随伴性によって強化される行動であると言える。 「こういう行動をすれば健康によい」と言われる場合でも、「こういうことをしなければダメだよ」と言われるよりは「こういうことをしたほうが良いよ」と言われてそれを始めたほうがよいに決まっている。しかしそれは、単に「こういうことをしたほうが良い」と自分言い聞かせるだけでは長続きしない。そのためには適切な好子出現の随伴性をセットしておかなければならないのである。各種セラピーではそのことまで配慮せず、もっぱら「これをしたら健康にいいから、こうしなさい」と「しなければならない」随伴性でオススメすることがあるが、もう少し別の形に変えたほうがいい。しかしそのためには随伴性の仕組みを理解することがどうしても必要である。 次回に続く。 |