じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
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1月22日早朝に見られた月齢25.4の月。今回は22日の22時58分に月の赤緯が最南となる。 なお、このWeb日記で何度も取り上げているように、毎日の月齢の簡便な計算法というのがある。2000年1月7日の日記の当該部分を再掲すると、 毎月の月齢を知る簡便な方法として「(m+d+α) mod 30」という計算法がある。mは月(但し1月から5月は、1、2、3、4、5の代わりに2、4、2、4、4を代入。「西に洋々日が沈む」と覚える)、dは日、αはその年に特有の数で今年は22(毎年11ずつ増え、30を超えたら30を減じた値とする)。上記の西暦2000年の時は、「その年の数=α」は22であったが、今年2009年はαがさらに9年分、つまり11×9=99増えて121となる。30の倍数分120を減じると1となり、要するに、月の数と日にちの数に1を足せば、ほぼ、月齢に一致することになる(但し1月から5月は、1、2、3、4、5の代わりに2、4、2、4、4を代入。「西に洋々日が沈む」と覚える)。 この計算法で行くと、1月22日の月齢は、2+22+1=25となってほぼ計算通り(1月の月の数は1ではなく2)。 今年の7月22日には皆既日食があるが、この日は、7+22+1=30で、ぴったり、新月となる。 |
【思ったこと】 _90122(木)[一般]定額給付金、いっそのこと外貨で給付したら?/円独歩高からお金とは何かを考える(1) オバマ氏が大統領に就任し祝賀ムードにあふれている米国ではあるが、その一方で外国為替市場では円の独歩高が顕著になっている。21日のニューヨーク外国為替市場では、一時、1ドル87円台前半まで値上がりし、1995年7月以来13年半ぶりの円高水準になったという。今回はこれに加えて、対ヨーロッパ通貨でも円高が進んでおり、ロンドン市場では、1ポンド=120円25―35銭、1ユーロ=112円80―90銭で取引を終了したということである。なお1月22日朝の時点では、いくぶん、円安傾向に戻っており、NIKKEI NET 外国為替情報によれば、1月22日06時22分現在では
円の独歩高は、輸入する原材料のコスト減、海外旅行先での割安感など、それなりに良い面もあるが、輸出立国の日本としては、やはり限界があるだろう。 そこでふと思ったのだが、いま話題となっている定額給付金を、円ではなく、外貨パック(ドル、ユーロ、ポンドなどの各種外貨)で給付したらどうなるだろうか。 定額給付金の総額は2兆円などと言われるが、これだけの規模で主要外貨をかき集めれば、その分、少しは円安になり、輸出依存企業も楽になるのではないかという気がする。であるなら、それだけで、経済対策になるはずだ。 いっぱんに外国為替レートというのは、自国の経済が安定しているほど上がり(日本であれば円高)、自国の経済が破綻すれば下がる(日本であれば円の暴落)はずである。このさい、外貨で給付金を支払っておけば、日本政府の経済対策が失敗すればするほど円安となるが、支給された「外貨給付金」のほうはその分、円との交換価値が上がるので、国民からの文句はその分出にくく、支持率が急落する恐れもいくらか減るように思う。 というようなことを素人なりに考えてみたが、やっぱりどこか変やなあ。 そこでこれを機会に、お金とは何かということを改めて考えてみた。 行動分析学の言葉で言えば、お金というのは、習得性の般性好子(はんせいこうし)である。それが安定的に流通している限りにおいては、種々の行動を強化するきわめて効果的な好子として機能する。 しかし、お金というのはしょせん、タダの紙切れであって、1万円というお札自体は食べても栄養にはならないし、燃やしても暖を採れるほどではない。それが価値を持つのは、つまり、好子として機能できるのは、ある時代の、1つの社会の中の約束事に依拠しており、かつ、資源が有限であり、人々が相互に依存しながら諸活動を営んでいくという状況に限られている。 そういう前提が保証されているもとでは、お金を持っていれば少なくとも次の2つの権利を行使することができる。 1つは、限られた資源(食物、土地、建物、道具など)のうちの一部を占有できるという権利である。逆に言えば、資源が無限に近い場合(厳密には無限ではないが、使い切れないほどたくさんある場合)は、それを手に入れるためにはお金は必要ではない。例えば、呼吸をしたり物を燃やす時に、わざわざ空気(厳密には酸素)を買う人は居ない。 もう1つは、他人からサービスを受けるための契約書としての機能である。例えば、Aさんが1万円払ってBさんから1時間のサービスを受けたとする。Bさんが受け取った1万円札をCさんに渡せば、今度はBさんが1時間のサービスを受けられることになる。こういうふうにして、同時代の人がサービスを交換し続けている限りは、1万円札は、それなりの価値を有することになる。また、時として、BさんがCさんからサービスを受けるのは、BさんがAさんにサービスした時の50年後であるかもしれない。これが要するに年金の仕組みである。 もっとも、そのうちにだんだんと人口が減ってきて、Cさんの周りには誰もいなくなってしまったとしよう。その瞬間、Cさんは誰からもサービスを受けることができなくなり、せっかく貯め込んだお札はまさにタダの紙切れになってしまう。 「他人からサービスを受けるための契約書」としてのお金の機能は、次のような事例を考えてみると分かりやすいかもしれない。 Aさん、Bさん、Cさんの3人が、絶海の孤島に漂着して生活を始めたとする。3人が自発的に協力しあって生きていく限りは貨幣は要らない。また、3人が、それぞれ個別に自給自足、相互に一切干渉しないという生活を送ることになればその時にも貨幣は要らない。しかし、3人がある程度の相互援助を必要とし、その一方で、できるだけ多くの時間を自分自身のために使いたいと思っていたとすると、限られた時間を「他者にサービスするか、自分自身のために使うか」という葛藤が生じる。そうはいっても、力づくで他者を動かすことができない。この時に、「今回は、あなたからサービスを受けますが、次回は私のほうからサービスを提供します」という契約書のような形で手渡すのがお金の始まりであえう。そうして、それが、あるコミュニティの中で回り回るように履行されていけば、そのコミュニティの中での相互援助は円滑に維持されていく。 であるからして、年金とか、消費税率アップなどという議論も、高齢化社会のゼッタイ必須条件というわけでは必ずしもない。例えば、 ●すべての国民は、18歳から20歳までの2年間、高齢者の生活を支えるための生産活動、支援活動、介護活動に従事しなければならない。正当な理由なくこれを拒否した場合は国外に追放する。 という法律で強制してもよいし、あるいは、高齢者をいたわり敬うような教育を徹底的に行い、強制されなくても自発的・積極的に生活支援活動に参加し、しかも参加することが喜びとなるような仕組みを作ればそれでもよかろう。 世の中が大きくなり複雑になると、株価や外国為替の変動をうまく利用して大儲けを企む人も出てくるし、また、振り込め詐欺のように、人を騙してカネを巻き上げようという悪者も増えてくる。しかし、お金の価値の基本は、人々が資源を増やし(=生産活動)、穏便に分け合い、相互に人的サービスを提供し合うということを前提に成り立っているのであって、その歯車が崩れてしまえば、そのとたんに、お金も価値を失うことになる。 もとの話に戻るが、日本円、ドル、ポンド、ユーロ、中国元といった主要通貨を均等に保有しておけば、どんなに経済が混乱してもトータルの貨幣価値はそれほど目減りしないように見える。この点は株式や債券とは根本的に異なる。しかし、そういう世の中にあっても、世界同時インフレや、世界同時デフレというのはありうることだ。つまり、各国が競って紙幣を増産してばらまけば、世界全体、どのような通貨で物を買おうとしても、その物価はどんどん値上がりしていくに違いない。とにもかくにも、この世界にはゼッタイ的な「資産」などはあり得ない。紙幣を持っていると、持っていない場合に比べて、目先の交換でサービス受けられる可能性が高いのでそのように錯覚しているだけにすぎない。 |