じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
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伊勢神宮内宮は右側を歩くことを推奨
3月21日の日記に、東急・田園都市線の階段で左側通行が推奨されているという写真を掲載し、そのさい「なお、神社の鳥居をくぐる時も左側通行。もともと、刀を左側にさしている武士が、向こうから来る人の鞘とぶつからないための配慮であると聞いたことがある...」と書いたところであったが、伊勢神宮内宮では逆に右側通行を推奨していた。ネットで検索したところこちらのサイトに、「伊勢神宮・外宮では左側通行、内宮では右側通行なのも、神様がいらっしゃる御正宮に、できるだけ遠回りして近づくためだと言われています。」という記述があった。 |
【思ったこと】 _90324(火)[心理]老荘思想とひきこもり(2) 今回の研究会は、教育講演、特別講演、シンポジウム(話題提供3題と指定討論)に分かれており、それぞれ興味深い内容であったが、メインテーマである「老荘思想」と「ひきこもり」の関係については、どの方も突っ込んだお考えを提唱されなかった。その原因としては、演者の中に、両方の領域に精通された方が居られなかったこと、また、これらの関連性については先行研究が少なく、全員がスタートポイントのレベルにあったということが挙げられるのではないかと思う。 午前中に行われた教育講演は、「老荘思想とその周辺」という演題であった。老荘思想はしばしば、「道家」や「道教」の思想として語られることがあるが、「道家」と「道教」では同一ではない。西洋ではしばしば「タオイズム」として一緒くたに語られてしまうことがあるらしいが、両者には大きな違いがある。講演で聞きかじった時のメモを再現すると、
なお、老荘すなわち道家の思想と道教とには直接的な関係はない、とするのが、従来、日本の研究者の立場であった。しかし、道教が創唱宗教の形態を取る過程で道家の思想を取り入れたことは事実で、そのため西欧では、19世紀後半に両方を指す語としてタオイズム(Tao-ism)の語が造られ、アンリ・マスペロを筆頭とするフランス学派の学者たちを中心に両者の間に因果関係を認める傾向がある。それを承けて、日本の専門家の間でも同様な見解を示す向きが近年は多くなってきている。という見解を紹介している。 余談だが、道教の「道」という漢字だが、講演によれば、「道」という字に「首」が含まれているのは、敵の首をぶら下げて魔除けにするというような意味があるとか。もっとも、ウィキペディアの当該項目には、「道の字は「しんにょう」が終わりを、首が始まりを示し、道の字自体が太極にもある二元論的要素を含んでいる。」という考えも紹介されている。【「しんにょう」の外字は省略】 それから、これもよく言われることだが、老荘思想は、老子・荘子以前から中国・漢民族のあいだにあった考え方を広く含んでおり、また、儒教と排他的関係にあるわけでもない。ちょうど日本人が、神道と仏教を混在させているように、多くの漢民族も、儒教と老荘思想を混在させており、一般的には仕事が順調で組織全体を動かす時には儒教的な考えを重視し、事業に失敗したり落ち込んだ時には老荘思想に頼ることがあるらしい。この傾向は過去の支配層にも見られるらしく、また、中国人の書棚の隅っこには、ちょっぴり恥ずかしそうに何冊か老荘思想の本が置かれていたという逸話もあるというが、真実かどうかは定かではない。 あと、これも、あくまで私の聞きかじった限りでの雑学的知識に過ぎないが、「老荘」の「老子」と「荘子」ではいくつかの違いがあるらしい。今回、フロアからの質問に対する回答という形で言及されたのは、「国について語っているかどうか」、「神仙思想について語っているか」の2点であり、両者の間では大きな差違があるという。 こうしてみると、「老荘思想に基づいてひきこもりに対処する」とか「老荘思想を高齢者福祉に活用する」などと言ってみても、そもそもの老荘思想のエッセンスが何であるのか、何があれば老荘思想で、何が欠けていればそうとは見なされないのかということがはっきりしないとなかなか議論ができないように思える。そういう議論をすること自体が、西洋哲学的な発想であり、西洋的な論理判断や自然科学の論証形式にマインドコントロールされていると言えないこともないけれど。 次回に続く。 |