じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
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2009年版・岡山大学構内のキノコ(1)オオシロカラカサタケ
今年もまた大学構内でキノコが見られるようになってきた。写真は農学部農場の田んぼの隅に出現した「オオシロカラカサタケ」。毒キノコで、園芸植物に被害を及ぼすキノコとして注目されており、あまり歓迎されない。 なお、今年はカラ梅雨模様で、例年に比べるとキノコの発生の時期が遅い。また、7月2日頃からはクマゼミが鳴き始めている。 |
【思ったこと】 _90705(日)[心理]お金と消費と広告の心理学(2) 昨日の日記で、「お金」の機能の根本的な特徴は ●他人を自分のために働かせる手段の1つ であると書いた。「働かせる」というと権力者が家来や奴隷を無理やり働かせるという印象があるが、本来、お金というのは、
お金の本質が「使役機能」であるということは、いくつかの思考実験から証拠づけることができる。 第一に、お金というのは、自分のために働いてくれるような他者があってこそ価値が出てくるものである。莫大な財宝が隠されていた無人島にたった一人で漂着した者にとっては、その島から脱出できない限りにおいては、お金は何の役にも立たない。 第二に、世の中の人がみな、他者の助けを借りずに自給自足の満ち足りた生活をしていたとすると、お金はやはり何の役にも立たない。誰も、お金を払うという形では自分のために動いてくれないからである。 第三に、自発的に共同作業を行い、潤沢に生産物を獲得し、それらを欲しいだけ受け取れるという集団や社会においてはお金は何の役にも立たない。お金を払わなくても皆、協力してくれるし、欲しい物も手に入るので、お金を使う場所が無くなってしまうからである。 第四に、社会全体が大金持ちになって、皆、遊んで暮らせるようになるということはゼッタイにあり得ない。他者のために働いてくれる人が居なくなった時点で、大金持ち全員の資産はたちまち消滅してしまう。なお、現実の世界では、大金持ちの多い国は、外国から労働者を雇って自分のために働いてもらっている。 以上の思考実験からも分かるように、お金というのは「使役」なくしては存立しえない。であるからして、お金(あるいはそれに代わる金銀財宝)は、
以上述べたことについては、いくつか反論が出てくるのではないかと思う。 第一に、非常に貧しい人が、食べ物や衣類を手にするために賃金労働をしたとする。貧しい人が受け取ったお金のもなお「使役機能」があると言えるのだろうか? 答えは「YES」である。なぜなら、その人がお金を支払って手に入れた食べ物や衣類は、第三者によって生産されたものである。間接的、かつ時間的には順序が逆になるが、その貧しい人は、第三者に食べ物や衣類を「作らせ」た上でそれを自分のために消費しているのであり、やはり、お金を使ってそれらの人たちへの「使役」機能を行使しているのである。但し、ホテルのゴミ置き場から残飯を手に入れたり、ゴミに出された衣類を身にまとって暮らす場合は、使役とは言い難いし、実際、そこではお金も使われていない。 第二に、お金には、使役機能ばかりでなく、所有機能もあるのではないか、という反論が考えられる。しかし、そもそも所有というのは、資源が限られている中で意味を持つのであって、例えば、空気のように(実質上)資源が無限にある場合には所有という概念は意味をなさない。資源が限られていても、その資源に使用価値もしくは交換価値が無ければ所有という意味はなさない。けっきょく、廻り廻って最終的には「使役機能」と交換できる条件がそろった時に初めて、所有機能として意味をなす。ということで、所有機能は、使役機能から派生したものであると考えるべきである。 第三に、お金には「人を働かせる機能」ばかりでなく、「面倒なことをしなくて済む機能」もあるのではないかという反論が考えられる。しかし、ここでいう「面倒なこと」というのは要するに
では、結局のところ、貧富の差がなくなり、かつ皆がボランティア的に助け合って生活していくようになれば「お金」は要らなくなるのか? 私はその場合でも、「分業化が進んで自給自足が困難な社会」として発展していく限りにおいては、お金は有用であろうと考えている。分業化が進めば、より高度な生産物やサービスが提供できるようになる。しかし、単に職業選択の自由を与えているだけでは分業社会は実現できない。高い能力と努力を必要とするような職種、あるいは、ストレスの多い職種は、社会的にそれ相応の評価をしなければならない。その際に最も合理的に機能するのが「高額の賃金」ということになる。 次回に続く。 |