じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
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幻想庭園と烏城灯源郷(1)夕暮れの岡山城 8月16日(日)の夕刻、夫婦で岡山後楽園の「幻想庭園」と岡山城の「烏城灯源郷」を見に行った。今年度の最終日ということもあって、旭川河川敷の駐車場は荒手茶寮の南東側までほぼ満車状態。そこから後楽園西側の遊歩道を歩いたことで幸運に恵まれ、写真のような夕暮れ時の岡山城を堪能することができた。 |
【ちょっと思ったこと】
お盆休みは衛星放送ざんまい 今年のお盆休みは、妻の実家のある北九州で過ごすことになった。お盆の時期の九州北部の天候はまことに不順であり、こちらのデータが示すとおり、8月11日から15日は、毎日降水量を記録した。そんなこともあって、帰省中はもっぱら、衛星放送を視ながら、ノートパソコンを使って文献資料整理などの仕事をこなした。 備忘録代わりに帰省中に視た主な番組をメモしておくと、
ふだん衛星放送を視る機会が無いので、妻の実家に帰省した時にはもっぱら、大型液晶・高画質のハイビジョン放送で、国内外の自然風景紹介番組を視ることを楽しみにしているところであるが、今回は時節柄、戦争を扱った番組の再放送が多かった。 同じ日の異なる番組で、第二次大戦末期を生き延びた兵士、大陸からの引き揚げ者、さらに指導者やその家族の証言を聞いていて、戦争のとらえ方というのが立場によって様々であるということを改めて痛感した。 上記の番組リストの中では、もっとも悲惨な体験として語られたのはおそらく、硫黄島生還者たちの証言であろうと思う。当時の大本営発表では、「玉砕」という一言で英雄的に伝えられていたが、兵士の多くは、硫黄島地中の焦熱地獄の中で飲み水を断たれ、米軍からは火炎放射器、燻り出し、海水投入(海水の表面は火のついた油)の攻撃にあい、投降に応じようとすれば上官から射殺されるという現実にあったという。しかし、兵士たちがそういう地獄の苦しみに苛まれていた同じ時、指導者やその家族は、邸宅の一室でゆったりと紅茶でもすすりながら、戦況を伝えるニュースに聞き入っていたのであろう。 「8月15日 あの日、世界は何をめざしていたのか」という番組の中では、当時の鈴木貫太郎首相が“「subject to」とはどういう意味か?”を辞書で調べていたというような証言があったが(←長谷川の記憶のため正確な引用ではない)、それと同じ時間帯、泰阜村出身の引き揚げ者たちは、命からがら旧・ソ連の攻撃から逃げのびようとしていたことであろう。 今回視た番組は主として、日本人によって語られた体験が中心であったが、日本軍の犠牲となった人たちの証言を取り上げた番組を視ていたとしたら、それこそ日本人であることが嫌になってしまうほどの残虐な行為が語られていたに違いない。 戦争を無くしていくには、戦争の悲惨さを訴えるだけでは不十分であり、
8月15日、「国のために死ねますか」という街角インタビューの中で、大部分の若者は「そんなことできない」と答え、中には「国のために死ねなどという国家なら、滅ぼしてしまったほうがいい」というような発言をする男性もいた(←長谷川の記憶のため正確な引用ではない)。これらは、ある意味ではきわめて健全な回答であるとも言える。しかしいざ戦争が起これば、よほどの特権階級でない限りはそこから逃れることはできず、また、戦場では生き延びようとする選択は、敵前逃亡者は射殺という形で一切断たれてしまうことになる。 |