じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
【思ったこと】 _91006(火)[心理]「○○はなぜ××なのか」を考える(3) 昨日の日記でも述べたように、「○○はなぜ××なのか」という問いを発するには、その前提として、 ○○は××である という事実をしっかりと検証しておく必要がある。その場合、
ここから先は、論点が拡散しすぎることを防ぐために、「なぜ?」の対象を人間に限定して話を進めることにしよう。 人間に関わる最も一般化された問いは、「人はなぜ××なのか」という形をとる。しかしこの場合、「本当に人は××なのか」という疑いが常につきまとうことになる。質問者は質問と同時に、「人は××である」という証拠を示さなければならず、これはかなりの負担である。前回も述べたが、「日本人はなぜ集団主義的なのか」という問いも同様である。この質問を発する者は、日本人が集団主義的であるという証拠を示さなければならない。 いっぽう、「人はなぜ××なのか」という問いを、「人のなかに××があるのはなぜか」という問いに書き換えたとすると、負担はかなり軽くなる。この場合は、「××がある」という一例を示せばよい。その現象の証拠を集めることに費やさなければならなかったエネルギーを、その現象自体の因果プロセスの解明に投入することができるので、そのほうが建設的であるかもしれない。前回も述べたが、「外国人力士はなぜ日本語がうまいのか?」という問いかけをする場合は、外国人力士は本当に日本語が上手だという証拠を示す必要が出てくるが、「外国人力士の中には日本語が上手な人が居る。それはなぜか?」というように問いを書き換えれば、証拠集めに費やすエネルギーは少なくて済む。 もっとも「人のなかには××というタイプがある。それはなぜか?」という問いは、「人は誰でもみな××である。それはなぜか?」という問いよりも魅力に欠けるところがある。一般化を放棄してしまうということは、それが人類全体(あるいは社会全体)の関心事ではないという意味にもつながる。「カラス なぜ鳴くの カラスの勝手でしょ〜」という無関心さや、単に「人には多様性があるので、××であることも××でないこともある」と割り切ってしまうのと同様である。より建設的な問いにするためには、 「人のなかには××というタイプがある。それはなぜか?」 という問いと、 「人の中に××というタイプと、××ではないというタイプの2通りがある。その違いはどうして生まれるのか?」 という生起条件探索型の問い(「どういう場合に××が生じるのか」)をセットにして検討していく必要があるように思う。 不定期ながら、次回に続く。 |