じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
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12月27日の早朝、一般教育棟の出入り口をふさぐようにして駐まっている車があった。こんなところに駐めっぱなしにされたのでは大型車両は入構できない。 大学構内の出入り口は深夜になると閉鎖されるが、早朝に再び開門される。この事情を知らない者が、一日中閉鎖されていると勘違いして駐めっぱなしにしたのではないかと思われる。 |
【思ったこと】 _91226(土)[心理]東北アジアの幸福観(6)世俗主義の幸福論(2)ジェレミー・ベンサムとトマス・カーライル 昨日に続いて、政治思想史の研究者による表記の話題提供について感想をのべさせていただく。 ところで、今回のシンポの統一テーマは、「東北アジアの幸福観」となっており、キリスト教思想や「世俗主義」は統一テーマとはあまり関係が無いようにも思えた。しかし、このあとに行われた討論では、ユーラシア大陸の東の端にある日本と西の端にあるヨーロッパでは、意外に共通点が多いというコメントも出された。もっともそうなってくると、「東北アジア」というエリアでくくることの意味が薄れてしまう。このあたりは今後の検討課題となるであろう。 さて本題に戻るが、話題提供の半ばでは、19世紀における快楽主義と禁欲主義について代表的な見解が引用された。このうち、ジェレミー・ベンサムの快楽主義に関しては、 自然は人類を苦痛と快楽という二人の主権者の支配の下に置いてきた。我々が何をしなければならないかということを指示し、また我々が何をするであろうかということを決定するのは、ただ苦痛と快楽だけである。一方においては善悪の基準が、他方においては原因と結果の連鎖が、この[快苦という]二つの王座につながれている。【ベンサム『道徳及び立法の諸原理序説』、中央公論社版、81頁】というくだりが引用された。ここで敢えて、レジュメから引用部分を転記させていただいたのは、上記の「快苦」が「好子、嫌子」という行動分析学の基本概念と同じように使われていると思ったからである。じっさい、スキナーとベンサムの関係については、いくつかの文献で関連性が指摘されている。 続いて引用されたトマス・カーライルの禁欲主義の考え方は、私個人にはどうにもこうにもなじまないように思えたが、ウィキクォート(Wikiquote)の当該項目の中にある、
人生の分数は分子を大きくするよりも、むしろその分母を減ずることによって価値を増やすことができる、ということはどこまでも正しい。【『衣装哲学】、山口書店版、217-219頁】という引用もあった。意欲旺盛な若い世代にこれが当てはまるかどうかは議論がありそうだが、歳を取ってくると、おそらく、こういう人生しか目ざせなくなるし、それでよいという考えは私にもある。繰り返し強調すれば、老後の幸福という分数は、分子を大きくするよりも、むしろその分母を減ずることで満たされる、と言うことができるだろう。 不定期ながら次回に続く。 |