じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



12月のインデックスへ戻る
最新版へ戻る
§§
 29日の午後、山陽道経由で、妻の実家のある北九州に帰省。写真は途中のSAで見かけたエコツリー。近づいてみるまでは、ペットボトルで作られているとは全く気づかなかった。

 岡大のイルミネーションも、学生たちがペットボトルで作る企画にすれば、参加者が増えてもっと盛り上がると思う。もっとも、この写真にあるようなやり方で内部から光を当てると、LEDのランプより電気代がかかってしまってエコにならない可能性もある。また、岡大構内はかなり強い風が吹くこともあるので、屋外での展示では吹き飛ばされる恐れもある(LEDのイルミネーションは風が吹き抜けるので飛ばされる恐れは少ない)。


12月29日(火)

【思ったこと】
_91229(火)[心理]東北アジアの幸福観(9)世俗主義の幸福論(5)幸福の多元化、私事化

 昨日の日記ではチャールズ・テイラーの世俗化論に触れた。私自身はテイラーについては何1つ著作を拝読したことが無いので、イマイチ、論旨が理解できないところもあった。例えば、「有神論(具体的にはカトリシズム)は一つの有効な処方箋を示せるように思われる」というくだりが話題提供者のレジュメにあったが、「処方箋」というのはアナロジーにすぎず、有効性があるかもしれないということ以上の意味を含んでいるとは考えにくい。しかも、テイラーは「自然科学的方法論で人間を理解することは出来ない、ということを主張した博士論文を『行動の説明(Explanation of Behavior)』として出版した」ということなので、自然科学的なロジックに依拠しない「有効性」の定義と、根拠を示す方法が別に必要になってくるはずだ。どういうふうにしてそれがなされているのかは、勉強不足のため分からなかった。




 話題提供のむすびのところでは「幸福の多元化、私事化」という問題が取り上げられた。ではなぜ幸福は「公事」ではなく「私事」とする必要があるのか。話題提供者によれば、「何が不幸か」ては万人に共通性がある一方、何が幸福かという議論を始めると、最後には殴り合いの喧嘩になってしまう。これは経験的にも納得できることであり、要するに幸福は多元的であって、何が正しいかというような議論はできない。故に、政治は幸福を扱わないということが現代のリベラル・デモクラシーの共通の認識になっているとのことである(←但し、これは話題提供者の結論ではない)。


 次回に続く。