じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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2010年版・岡山大学構内でお花見(82)今年のキンモクセイ

 大学構内各所でキンモクセイの花が咲き始めている。開花時期は、その年の気候や生育場所によってかなり異なるが、この写真にある樹に限っては例年通りと言える。2007年10月19日の日記に同じ場所の写真あり。

10月4日(月)

【思ったこと】
_a1004(月)日本心理学会第74回大会(13)素朴弁証法と心理学的成果(5)不満足な結果の許容/曖昧と矛盾の違い

 儒教、道家、禅宗の基本概念の紹介に続いて、本題の心理学的研究について、5つの心理学的成果について、テーマ順に講演が行われた。

 昨日の続き。

 講演の後半では、
  • 対自尊和心理健康的影響
  • 対社会認知的影響
  • 対情緒判断的影響
について、ご自身の研究成果が紹介された。その中で興味深かったのは、「○○を選んだ場合、選ばなかった場合とその結果の善し悪しとの関係」について、どの程度それを容認するかどうか、という文化比較の研究であった。質問項目としては、
  1. 選択礼物→プレゼント
  2. 選択住房
  3. 選択基金→投資ファンド
  4. 選択股票→株のこと
  5. 選択配偶
  6. 選択工作→しごと
がある。論理的な組み合わせとしては、
  • それを選び(選択了A)、良い結果(A是好的)となった。
  • それを選ばなかったが(没選択A)、選んでいれば悪い結果(A是坏的)であった。
  • それを選び(選択了A)、悪い結果(A是坏的)となった。
  • それを選ばなかったが(没選択A)、選んでいれば良い結果(A是好的)であった。
中国人と米国人との比較によれば、
  • 仕事に関しては両者とも許容傾向
  • 配偶者に関しては両者とも否定的傾向
という共通性が見られたいっぽう、プレゼント、投資ファンド、株、住居に関しては、中国人のほうが「それでも構わない」と許容する傾向が高いという興味深い結果が得られた。要するに、「つまらないプレゼントでも、無いよりはマシ」、「不適な住居でも、住めないよりはマシ」ということであり。中国人のほうが高リスク・ハイリターンの投資に参加する傾向が高いというような結果であった。




 以上が、ご講演について私が理解・記憶していたことのメモであるが、全体的な感想としては、まず、実験・調査参加者のサンプリングについての疑問があった。中国人と米国人との比較と言っても、実際には、北京大学生(一部は清華大学生)とカリフォルニア大学バークレイ校の学生との比較。また、一部引用された日本人のデータは東大生であり、ラテンアメリカ系米国人人(拉美人)のデータもカリフォルニア大学バークレイ校の学生であった。それらの大学生が、果たして、中国人、米国人、日本人のサンプルとしてふさわしいかどうは大いに疑問であった。

 また、より根本的な疑問として、今回の講演で言われている「矛盾」が具体的にどういう内容を示しているのか、イマイチ納得できないところがあった。

 ここでいきなり天気予報の例を出してみるが、

○「明日の天気は、晴れですか、雨ですか?

という質問に対しては、少なくとも
  1. 天気には無関心なので分かりません。
  2. テレビやラジオを聞いていないため、情報が乏しくて分かりません
  3. 前線の動きを予測することが困難なので、晴れるか雨になるか、五分五分の確率です。
  4. 晴れている時間と、雨が降っている時間の両方があります。
といった4通りの回答が可能である。今回話題となった、自分をどう評価するかに関する「矛盾」というのも、
  • 自分自身を評価することに関心が無い場合。
  • 自分自身について、自分でもよく分からない場合。
  • 質問項目として提示された形容表現そのものが不適であると考えた場合。
  • 自分自身は(和田秀樹氏の言葉を借りると)もともと「シゾフレ」タイプ人間であり、場面や文脈によって、態度を変える。そういう意味では、矛盾する内容を含んでいる。
など、いろいろなケースが考えられる。講演の中では、回答に要する反応時間のデータも示されていたが、最初から矛盾を確信している人は、自分はこうだと決めつけている人と同じように、比較的速く回答できるはず。また、自己評価に無関心な人も、どうでもエエという形でさっさと反応してしまうかもしれず、反応時間だけではエビデンスをとりにくいようにも感じた。

 あと、『あいまいな日本の私』という時の「曖昧」と、今回の講演で言われている「素朴弁証法」における矛盾の内在・許容ということとの違いがよく分からなかった。(←このことについては、フロアからの質問の機会があった時にも質問させていただいたのだが、うまく通じなかったようだ。要するに、私の受け止めでは、「contradiction」と表現されていたことは、大部分「ambiguity」に置き換え可能ではないかということであった。


 次回に続く。