じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
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1月31日は卒論の提出締め切り日であった。最近は要領のいい学生が増えていて、たいがいの学生は締め切り時刻の1時間以上前には提出を終えていた。写真は、全員が提出し終えた後の演習室内。窓の外には半田山が見える。 なお、文学部では今年の秋以降に耐震改修工事が始まり、改修後には抜本的な部屋替えが行われる。この部屋で卒論のためのデータ解析をするのは今年度が最後ということになる。 |
【思ったこと】 _b0131(月)行動主義の再構成(6)「単線的行動随伴性」は行動の原因ではなく、アクセレーターやブレーキのようなものだ 1月27日の日記の続き。これまでの論点は以下の通りである。
要するに、「行動とその直後の結果」という「単線的随伴性」は、「随伴性スパイラル」のスタータ(starter)、もしくは「随伴性スパイラル」がすでに継続状態にある場合には、そのアクセレーター(accelerator、強化の場合)やブレーキ (brake、弱化の場合)として機能しているに過ぎず、行動の真の原因ではない。実験的行動分析で確認される強化や弱化というのは、アクセレーターやブレーキとしての効果の確認であって、行動の真の原因を同定するものではないというのが、今回の連載における最も「過激な主張」をなすものである。 もっとも、もともと強化(reinforce)というのは「補強する」という意味であるし、オペラント行動自体は「自発される」行動として定義されているのであるからして、「オペラント行動の原因が行動随伴性にある」と主張すること自体が本来の趣旨に反すると言えないこともない。また、そもそも「因果関係」なるものは、人間が、多種多様な相互作用の一部を切り取って、予測や利用に役立てるために秩序づけた道具のようなものである。こちらの論文の注4で 自然界には確かに法則のようなものが人間から独立して存在する。それは、人類の誕生前から存在し、人類が滅亡した後でも、宇宙の構造が質的に変わらない限り、同じように存在するだろう。しかし、それを人間が認識するとなると話は違ってくる。「科学的認識は、広義の言語行動の形をとるものだ。人間は、普遍的な真理をそっくりそのまま認識するのではなくて、自己の要請に応じて、環境により有効な働きかけを行うために秩序づけていくだけなのだ。」というのが、行動分析学的な科学認識の見方と言えよう。佐藤(1976)は、この点に関して、科学とは「自然のなかに厳然と存在する秩序を人間が何とかして見つけ出す作業」ではなく、「自然を人間が秩序づける作業である」という考え方を示している。と述べたように、「行動の原因」なるものも、結局は、行動を予測したり改善しようとする時のツールとして編み出されたという側面がある。 |