じぶん更新日記

1997年5月6日開設
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役目を終えて落花したアメリカフウ(モミジバフウ)の雄花。

 4月24日掲載のケヤキの雄花、4月28日掲載のイチョウの雄花とともに、新緑の季節に「雄系」のはかなさ、むなしさを感じさせる光景である。なお、雄花が枝についていた時の写真は、4月22日の日記にあり。

5月1日の楽天版に、「新緑に散り果てる雄花3種」の写真を追加した。

4月30日(土)

【思ったこと】
_b0430(土)今回の大地震について思ったこと(27)「絶対善」と被災地とのミスマッチ(1)義援金

 まず、例によってNHKオンラインの見出し項目を掲げておく(5月1日早朝の時点)。
  1. 原発交代要員 経験者ら派遣検討
  2. 被災地 夜に雨強まるおそれ
  3. “二重ローン”支援策検討へ
  4. 東電副社長“事故は人災”
  5. 屋根に打ち上げの観光船 解体へ
  6. 参与辞任 政府・民主党冷めた見方
  7. 長友選手フル出場 逆転勝利
このうち「屋根に打ち上げの観光船」という見出しの「打ち上げ」の意味が分からないのでクリックしたところ、
津波によって岩手県大槌町の民宿の屋根に打ち上げられた観光船について、岩手県などは、落下する危険があり、震災の象徴として保存するのは難しいと判断し、観光船は近く解体されることになりました。

観光船「はまゆり」は、岩手県釜石市が4億円をかけて建造し、釜石湾を周遊する観光のシンボルとして親しまれてきました。定期点検のため大槌町の造船所に預けられていたところを津波に襲われ、400メートルほど陸に入った民宿の2階の屋根に打ち上げられました。【以下略】
といった内容であり、「打ち上げ」というのは津波で打ち上げられたという意味であることが分かった。信じられないほどの高さまで津波が押し寄せたことがよく分かる光景であるが、保存できないのは残念である。かつての阪神淡路大震災の時の様子は野島断層保存館などで見学することができるが、やはり実際に自分の目で見ると、震災の恐ろしさがよく分かる。今回の津波被害についても何らかの形で後世に伝える必要があるように思う。




 さて、今回の震災では、地震・津波発生直後から、義援金(義捐金)集めが行われた。

 義援金を拠出する行為は、殆どすべての人が善いことだと思っているという点で「絶対善」に限りなく近い。稀には「そんなこと自分には関係無い」とか「税金や給与カットで収入を減らされるというのになんで義援金まで払う必要があるのか」といった文句を口にする人もゼロとは言えないが、他人が義援金を拠出することに反対したり、それらは悪だと主張する人はまずおるまい。

 しかし、義援金は、現実には一般に期待されているほどの即効性は無く、必ずしも十分には機能していないようである。

 じっさい、4月30日配信の読売新聞ニュースを要約引用すると、
  • 東日本大震災で寄せられた義援金の給付が進まない。岩手、宮城、福島の3県へ日本赤十字社などから送られた約580億円(第1次分)のうち、被災者の手元に届いたのは1割にも満たないことが、読売新聞の調べでわかった。
  • 日赤や中央共同募金会など4団体と被災した15都道県による「義援金配分割合決定委員会」は今月8日、死亡・行方不明者1人当たり35万円、住宅の全壊・全焼は1戸当たり35万円、半壊・半焼は同18万円を各世帯に配ることを決めた。
  • 宮城県には計約238億円が配分されたが、実際に受け取った被災者は、ほとんどいない。全職員の7人に1人が死亡・行方不明となった同県南三陸町では、戸籍が流失するなどして受取人の確認が難しいことに加え、町外への避難も十分把握できないという。
  • 岩手県には約101億円が配分されたが、29日現在、申請を受け付けているのは、対象23市町村のうち宮古市など5市町村のみ。
となっている。

 一口に「義援金」と言っても、税法上の控除が認められる義援金と、街角やスーパーレジの近くに設置されている募金箱に匿名で少額を寄付する場合では募金者の姿勢は異なる。このほか、特定の団体経由で送金される「支援金」というのもあるという。「義援金」では公平性・平等性が重視されるがその反面、実際に配分されるまでには数ヶ月から半年以上かかってしまう。大震災の被災者の方々のためにと思って急いで集めたはずの義援金が、実際には赤十字社や自治体の金庫に眠ったままになっているという可能性も無いとは言えない。いっぽう「支援金」のほうは即効性があるが、公平性・平等性は担保されないという。

 もう1つ、大震災という現実のもとで自分自身はどういう貢献をできるのかを考えていく過程が、「義援金を出したからこれでよい」という形で、思考停止に陥ってしまうという問題があるように思う。高額所得者や芸能人の中には、義援金をいくら払ったということをわざわざアピールして、それをもって贅沢三昧の生活の免罪符にしまっているような風潮が見られないわけでもない。(←もちろん、その場合でも義援金を出していただいたほうがありがたいことには変わりないが。)

 いや、そこまで打算的だと深読みするまでもなく、義援金を出す(あるいは、集める)ことばかりに奔走していると、それ自体が目的化してしまって、自分自身は本当はどういう貢献ができるのかということに注意が向かなくなってしまう恐れがあるように思う。