じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
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2011年版・岡山大学構内でお花見(65)チョウセンアサガオの上に立つヴィーナス。 7月14日の日記に、一般教育棟・ヴィーナス像前に咲くチョウセンアサガオの写真を掲載した。この時は横向きに咲いていたが、7月31日朝は上向きに咲いていたので、後ろのヴィーナスが花の上に立つようにちょっと細工をしてみた。 |
【思ったこと】 _b0731(日)スポーツ選手の「利他主義」 この一ヶ月あまり、女子サッカーのなでしこジャパン、大相撲、世界水泳2011などいろいろなスポーツ競技が話題になっているが、若干違和感を覚えるのは、優勝した力士や好成績をあげた選手たちがインタビューの時、「東日本大震災の被災地の方々に勇気(希望、夢、元気...)を届けることができてよかった」というような感想を述べていたことである。もちろん、それぞれ、素直な気持ちを表明したものであるとは思うが、スポーツの意義というのは、自分自身、もしくはチーム自身の目標を達成するために努力を重ねることにあるのであって、他者に勇気や希望や元気を与えることは本来の目的ではない。少々ひねくれた見方をすれば、一部の選手たちには、大震災や原発事故で日本国内が大変なことになっているのに、スポーツを続けていていいのか?」という後ろめたさみたいなものがあって、それをカバーするために被災地の人々への配慮を口にしているのではないかと思えるふしもある。 もちろん、選手たちの活躍は、被災地の人々をはじめとして、多くの日本国民に感動と勇気と夢と希望を与えてくれたとは思う。しかしそれは、観ている人たちが結果としてそう受け止めたのであって、選手たちが届けようとおもって届けたものではない。人間以外の生き物、たとえば、被災地の桜の老木が瓦礫に埋もれて花を咲かせたとすると、それを見た人たちには大きな励ましになるだろうが、桜の老木は別段、人々を励ますために花を咲かせているわけではあるまい。たとえば、過酷な自然の中で野生動物が必死に子育てをしている番組もまた、多くの人々に感動を与えてくれるが、これもまた、受け止める側が結果としてそう感じたのであって、当の動物たちは別段、人を励ますために子育てをしているわけではないのだ。 もともと、利己主義とか利他主義を区別する絶対的な基準など存在しない。ウィキペディアによれば利己主義とは、「利己主義(りこしゅぎ)は、自己の利益を重視し、他者の利益を軽視、無視する考え方。」であり、対義語の利他主義は「自己の利益よりも、他者の利益を優先する考え方。」であると定義されているが、「他者」と言っても、家族、地域、集団・組織、国、人類それぞれの利害関係には対立する部分があり、どういう他者を重視するのかによって行動はまるっきり替わってくる。たとえば、家族のために電車の席を取って自分は立っているという行為は、家族にとっては利他的であるが、家族以外の乗客にとっては利己的と言える。このほか、利己的な経済主体を前提としなければ成り立たない経済理論もある。 ま、スポーツ選手は、世間の動きにはあまり気を配らず、自身の競技で最善の努力を重ねていただければよい。それをどう受け止めるかは、観る側の判断に委ねればそれでよいと思う。 |