じぶん更新日記

1997年5月6日開設
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 8月11日の日記に記したように、文法経1号館耐震改修工事のため、心理学の研究室、実験室等は、8月下旬から一時移転をする。8月17日は朝から、ボランティアの学生の手により、(長谷川が管理責任者となっている)「心理学面接室」と「第一実験室」の片付けを行った。写真上は、作業完了時の記念写真(他に1名の学生が朝一番から作業に参加してくれていたが途中で体調を崩して保健管理センターで休養をとった。その後回復したということで一安心)。テーブルの上の段ボール箱は、歴代の卒論・修論の製本版。段ボール箱で13個分になった。

 改修工事完了後は、心理学の施設は現在の2階から3階に移動することになっているため、この部屋に戻ることは無い。

8月17日(水)

【思ったこと】
_b0817(水)2011年版・高齢者の心と行動(49) ダイバージョナルセラピーワーカー・フォーラム2011(12)理事長による基調講演(12)レジャーの役割(4)

 引き続き、ウィキペディアの当該項目を引用しながら、「レジャー」の概要について、私なりの考えをまとめておく。【緑色部分が引用。一部略。一部、改行箇所などを改変。青字部分は私の考え。】
  • 【日本でのレジャー】 【略】英国のleisureのきっかけが産業革命ならば、日本のレジャーにとってのそれは高度経済成長期である。産業振興の一方早くから国民の余暇活動育成への計画が練られていた。そしてオイルショック後の昭和48年(1973年)、余暇開発センター『余暇時代における産業活動の社会的位置づけ』でのレジャー定義は「人間の多様な生活活動のうち自由裁量に裏づけられた活動のすべてをさす」というもので、生活基盤系生活活動(食べる、健康、着る、住む、働く)の半分弱、生活創造系生活活動(遊ぶ、学ぶ、知る、つきあう)の全て、仕事系生活活動(働く)の半分弱、財務系生活活動(納める、備える、貯める、借りる)の半分弱が自由裁量的な要素を持つ広義のレジャーであるとしている。

    また、第4次国民生活審議会の答申「サービスに関する消費者保護について」では 6つのサービスのなかでレジャーサービスを筆頭にあげている。(他は運輸サービス、金融サービス、保険サービス、医療サービス、環境衛生サービス)

    『人のいとなみを生活時間で分けると,生理的必要時間,労働時間,自由時間となる』とし、この自由時間での活動がレジャーに相当するものとして論を進めている。 【中略】 ここでのレジャーは英語でのleisureと同等の定義であるが、その前段で、より積極的な位置づけを提示し、...【中略】...それが労働時間等の残余に過ぎないという従来とかくみられた考え方を排し,人間生活の中で積極的な意義を有する自由時間であるという国民的認識を確立する必要がある。そのうえで,たとえば,自由時間の拡充,レジャーのための物的人的環境の整備,レジャー環境の破壊防止,レジャー政策のための総合調整機構の整備等,積極的な政策の展開が図られなければならない。』とし、これを施策のベースとする考え方を表明している。

    この1973年の第4次国民生活審議会では『レジャーが生活のあり方を規定する重要な要素となってきた』『レジャーが国民福祉充実にとって,重要な分野を占めるようになってきた』『高福祉時代においてレジャーは人間が人間らしく生きるために,単に経済的充足にとどまらず心身ともに豊かな生活をおくるのに欠くことのできない要素となってきた』と規定している。 ここでのレジャーは、『自由時間の使い方』に置き換えることができる。

    【略】ここでは大きく、精神的緊張の緩和を求める『気晴しレジャー』と、自己の向上を目指す『創造的レジャー』とに区分し後者に重点を置く国民が増えてきていることが注目点だとしている。

    国民生活センターの調査による余暇目的の重要度についてみると「身体や心を休める」についで「いろいろな知識や情報を得る」、「未知のものにふれたり新しいものを創り出したりして心を豊かにし人間性を高める」の項目が上位にある。

    基本的な要因に加えて、レジャーへの関心を促がし、需要を増加させたものとして時間と所得の二つの要因があげられる。
    • 生活価値観の変化、自由時間の増大、所得水準の向上
    • 都市化等による社会環境の急激な変動および教育水準の向上やマスメディアの発達による情報の条件の変化に基づく価値観の変化


    しかしながら、一般的に使用された余暇とレジャーは、漢字とカタカナの表現の違いから生じる印象から、その後、使用される意味範囲が異なってきた。

    余暇は自由時間のことだが、レジャーは『余暇時間におこなう何かしら活動的なもの』を指すようになってきた。(レジャーのタイプを参照) 『レジャーに行く』や『レジャーをする』という表現が典型的な例としてあげられる。これは、すでに自由時間という概念を超越し、自由時間におこなう(おこなった)『遊び』や『旅行』や場合によってはより具体的な『ドライブ』や『キャンプ』や『乗馬』などという用語の置き換え表現となっている。また、レジャーと共に使用される動詞が『行く』『する』など行動をあらわすものが多いのも、レジャーがアクティブな自由時間だからである。何かをおこなうためにはお金がかかることも多い。日本でも産業振興の一環として『レジャー産業』という呼び方が官民一体で推進されたため、レジャーとはお金が要るものだという意識をもつ人も多い。

    また、カタカナ言葉のもつ『おしゃれな響き』とあいまって、レジャーという言葉自体が『流行しているアクティビティをおこなう』や、『人々がしたいなあと憧れと思えるようなことをする』という意味で使用される場合がある。 【後略】
     上掲の引用部分の最初のほうで、レジャーが「人間の多様な生活活動のうち自由裁量に裏づけられた活動のすべてをさす」というもので、生活基盤系生活活動(食べる、健康、着る、住む、働く)の半分弱、生活創造系生活活動(遊ぶ、学ぶ、知る、つきあう)の全て、仕事系生活活動(働く)の半分弱、財務系生活活動(納める、備える、貯める、借りる)の半分弱が自由裁量的な要素を持つ広義のレジャーであるとしている。」と定義されているのはなかなか興味深い。もっとも、行動分析学的に言えば、「自由裁量」というのは錯覚であって、すべてのオペラント行動は、行動随伴性から逃れることはできない。スキナーも指摘しているように、我々は、その行動が好子出現の随伴性によって強化されているときに「自由裁量」であると感じる。その一方、嫌子消失の随伴性や、好子消失阻止、嫌子出現阻止の随伴性で強化されているときには、「束縛されている」、「義務的に行動している」、「何かに支配されている」と感じているにすぎない。現代資本主義社会では、多くのレジャーは、商業主義によってコントロールされ、悪く言えば、レジャー産業に飼い慣らされていると言えないこともない。

     とにかく、レジャーというのは、好子出現の随伴性で強化されている行動の中で、阻止の随伴性が同時に働いていない(もしくは影響力が小さい)行動であると言ってよさそうである。

     レジャーというと、私が子どもの頃は、日頃朝から晩まで働いている人が、GWなどのたまの休みの家庭サービスの一環として、娯楽施設や観光地を訪れ、人混みの中で何が楽しいのか分からないような一日を過ごし、くたびれきって帰ってくる、といった印象が強かったが、その後、日本も経済発展を遂げ、よりゆったりとして創造的なレジャーが楽しめるようになってきたことは確かであると思う。

 次回に続く。