じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
【思ったこと】 _b1128(月)日本質的心理学会第8回大会(3)「個性」の質的研究(2) 昨日の日記でも指摘したように、「個性」の質的研究を論じる場合には、「「個」を対象とすることと、個性を研究することは同一ではない。」点に留意する必要があると思う。 「個」を対象にした研究としては、単一事例研究が知られている。例えばパブロフの条件反射の実験は、1匹の犬のヨダレの出方をシステマティックに分析したものであり、エビングハウスの記憶の実験も、エビングハウスが自分自身一人を被験者(←今の言葉で言えば「実験参加者」)として分析を行ったものである。いずれも、量的指標を主体としており、またそこで見出された法則性はきわめて一般性が高い。これはある意味では、物理学の実験で、1個の石を落下させて、万有引力の法則を実証する場合と似ている。条件反射の法則は人間を含む各種の動物に共通しており、また記憶の場合も、特殊な瞬間記憶能力を持った人を除いて、人類共通の特性を持っていると推測されるからである。こういう場合には、一事例や少数個体事例で実験を行うだけで、一般性のある法則を導き出したり、教育目的のデモ実験を行うことができる。 しかし、昨日の日記で引用したように、 個性とは、「多数の『個』の中で、ある『個』だけが特有に示す特徴や構造」と考えることができる。 と定義した上で個性の研究を行うことになると話は厄介である。昨日も述べたように、「ある『個』だけが特有に示す」と主張するためには、“ある『個』”以外ではその特徴や構造が存在しないことを証明しなければならない。例えば、ある人の食べ物の好みが個性的であると主張するためには、当人を含む集団のすべての構成員、100人とか1000人といった人たちすべての好みを調べなければならないことになる。そのためには多大ななコストと時間がかかり、集まってきたデータも膨大なものとなるが、殆ど利用価値はない。このことに限らず、単に質的方法に基づく事例を100人、1000人と増やしていっても、その膨大なデータは、後の世の歴史的資料としての価値はあるかもしれないが、費用対効果という点では殆どムダで徒労に終わってしまう。 では、一般性が約束されない状況のもとで、個や個性を研究することはどういう場合に有意義とされるのだろうか。これは結局のところ、研究自体へのニーズに関わってくると思う。 昨日も述べたように、医師が患者を治療する場合は、あくまで治すことが目的なのであって、患者を通じて新たな治療方法の有効性を検証するわけではない。一般に、臨床場面は、「臨床」の意味するとおり、個体本位でなければならない。 1000人の個々バラバラの好みを個別的・質的に記述することには殆ど意味がないかもしれないが、110歳を越える長寿者の好みを調べるということであれば、国民一般の健康保持のために何らかの価値のある情報をもたらしてくれるに違いない。また、一国の君主の好みを調べるということは、その君主に美味しい物を食べて頂くというニーズからの重要性がある。 このほか、いっけん何の役にも立ちそうにない研究が、他の研究者を触発し、結果的に研究全体の発展を促すということもあるかもしれない。但し、それはあくまで結果オーライ的な後付けの評価にすぎず、少なくとも公的資金を投入するような研究計画の採択にあたっては、そのような不確定の「成果」を主張することはできない。 次回に続く。 |