じぶん更新日記

1997年5月6日開設
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2011年版・岡山大学構内の紅葉(17)岡大・東西通りの紅葉

 紅葉の季節もそろそろ終了となってきた。写真は、大学構内では紅葉が一番遅い、岡大・東西通りの紅葉。12月9日に撮影したものであり、12月13日現在ではもう少し色あせている。

12月13日(火)

【思ったこと】
_b1213(火)日本質的心理学会第8回大会(18)内田樹氏の大会記念講演(2)数値主義の弊害/練習は常に愉快に実施するを要す

 昨日の続き。

 内田氏は、本題に入る前にいくつか複数の話題をとりあげておられたが、むしろそちらのほうが印象に残る内容が多かった。

 まずこの学会の「質的→定性的」ということに関して、いまの大学ではevidennceを求め、数値や記号でevidenceを出そうとすることにより、数値からとりこぼれるものはあたかも存在しないように扱われる傾向が出ていると指摘された。この傾向は1980年代、あるいは1990年代からと言われていたようだったが、うまく聞き取れなかった。

 このことによって、少なくとも外部資金を獲得するような場合は、5〜6年後に見通しの出せるテーマでなければ申請できず、creativeな研究が行われにくくなっていると指摘された。

 この数値主義はスポーツの世界でも蔓延している。内田氏御自身は合気道六段、居合道三段、杖道三段の武道家としても知られているが、学校での武道必修化には反対の姿勢を貫いた。内田氏によれば、合気道は本来、愉快に実施することを要すとされている。

 私自身は武道については全く素人であり、「愉快に」についてはよく分からないところがあったが、確かに、ネットで検索してみると、開祖・植芝盛平翁がしたためた「合気道練習上の心得」の中に「練習は常に愉快に実施するを要す」(Training should always be conducted in a pleasant and joyful atmosphere.」という項目のあることが確認できた。但し、中には「練習は常に愉快に実施するを要すも不真面目にすべからず」と修正している道場もあり、また、こちらによれば、この心得は「真に武道の心得を知る者は、むしろ肩肘の無駄な力が抜けて外見は柔和な姿に見えます。 つまり自然体で楽しく素直に修練する事が肝要であります。」という真意によると記されていた。いずれにせよ、道場では笑うな、相手にくいつくように、ということではない。

 ところが、競技武道となると、柔和な姿や自然体ではなく、相手に勝つかどうかが数値的に評価されるようになる。そうすると、最も合理的な方略は、自分を上げようと努力するのではなく、相手(仮想敵)を下げるということになってしまう。同じ傾向は、学力低下にも見られる。相対的優劣を競っている限りは、自分を高める方向には向かわないというようなご趣旨であった【あくまで、長谷川のメモと記憶に基づく理解】。

 以上のご議論には納得できる点も多かったが、私自身は、競争原理を絶対的に悪いとも良いとも思ってはいない。このWeb日記でも何度か書いたことがあるが、競争原理というのは実は「原理」ではなくて、複数の行動随伴性を設定する仕掛けのようなものである。その基本は、
  1. 相手より上回った成果を出すと、好子が出現する随伴性
  2. 成果が相手より下回った場合には好子が奪われるので、それを阻止しようとする、好子消失阻止の随伴性
にある。それゆえ、内田氏もご指摘のように、「相手を低める」という行動が強化されやすくなることは確かである。しかし、例えば、いま話題のダークエネルギーの発見に大きく貢献したパールムッター・チーム(物理学者グループ)とシュミット・チーム(天文学者グループ、オーストラリア主体)の熾烈な競争などは、ライバルがあったからこそ成果が出せたという側面もある。また、受験競争の場合も、入試会場での受験生の間では競争となるが、出身高校の中で友だちどうしが助け合って受験勉強に取り組むことは、むしろお互いを高め合うことにつながる。

 もっとも、今回内田氏が言われたのは、格闘技の競技であった。スポーツの中でも、陸上競技一般では、順位とは別に、タイムや距離の記録といった絶対評価が行われるので、競技者は自己記録更新に励むことができる。いっぽう、格闘技の場合は、どんなに練習しても、最終的には、その大会に出場する相手が強いか弱いかによって、金メダルが取れるかどうかが決まってくるので、必ずしも自分を高める成果にはつながりにくい面がある。このような違いが反映しているのかもしれない。


次回に続く。