じぶん更新日記

1997年5月6日開設
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§§  文法経3学部講義棟前の日本水仙。寒さの厳しい年ではあるが、この水仙に限っては例年より花つきが良い。まもなく行われる前期個別学力試験の際にも、受験生の皆さんの緊張をほぐしてくれることだろう。

2月21日(火)

【思ったこと】
_c0221(火)「質的研究の来し方と未来:ナラティヴを巡って」&「人生心理学:イメージ画と語り」(2)麻生氏の話題提供(1)

 昨日の続き。

 やまだようこ氏の企画趣旨説明に続いて、4人の方からの話題提供があった。ちなみに、このシンポの司会者は、田垣正晋氏と荘島幸子氏であったが、司会者というお立場上、御自身のお考えは全く述べられなかった。このうち、田垣氏の講演は6年前に拝聴したことがあり、やまだようこ氏が提起された、
  • 「何が質的研究の核心なのか?(理論と方法論)」
  • 「質的研究によって何が変革されたのか?(過去から現在)」
  • 「これからどのような研究をしていくべきか?(未来)」
3点に関しては、登壇者各位の中でも最も明解で具体的なお考えを示せる方ではないかと思われただけに、ご発言の機会が無かったのはまことに勿体ない気がした。

 さて、シンポの1番目は麻生武氏による話題提供であった。麻生氏はまず、1981年8月25日発刊の『心理学評論』(1980年23巻2号)で御自身とやまだようこ氏が同じ号に論文を掲載していたことが、やまださんとの出会いであったと述べられた。ちなみに、この時のやまだようこ氏の論文は「言語機能の基礎」というタイトルで、三項関係の形成について息子さんの観察なども踏まえて論じておられるとのことであったが、残念ながら私自身はこの論文を拝読していなかった。これを機会にぜひとも入手したいと思う。

 麻生氏はさらに、御自身が『心理学評論』の同じ号に掲載された「子供の他者理解−新しい視点から−」を引用し、
  • 他者理解の問題では、プロセスやメカニズムではなく、他者理解の実質(内容)をとらえることが最も重要な課題。
  • 単一の課題状況における子供の振るまいではなく、多種多様な日常世界の子供の振るまいを記述していかなければならない。
  • しかし、子供が悲しそうな表情をしていたと記述することは、我々がそのような表情をそのように解釈あるいは了解したことを意味している。つまり、我々は我々の他者理解を前提にしてしか、子供の他者理解をとらえることはできないという方法論的限界を自覚しておくことが大切。
と論じられた。

 子どもの他者理解というと、サリーとアン課題などがすぐに浮かぶが、これなどはまさに「単一の課題状況における子供の振るまい」そのものの実験観察である。その課題ができたかどうかという結果だけで、日常世界における多種多様は他者理解の中身を論じることはできない、と考えるのは正論であろうと思う。また、表情ということに関しては、認知症高齢者のケアの中でもしばしば話題になることであり、某パチンコメーカーのCMではないが、「いい笑顔」をつくる大切さが強調されている。

 もっとも、「子供が悲しそうな表情をしていたと記述する」ために、我々自身の他者理解という前提が必要かどうかは疑問が残った。顔の表情については、昨今のハイテク技術によりパターン認識や分類が可能であり、それぞれの表情のもとで当人がその前後の文脈でどういう振る舞いを見せたのかを観察記録することは、他者理解を前提としなくても可能ではないだろうか。例えば、鉢花が萎れている時に「この鉢花は水を必要としている」と判断することは、鉢花についての「他者理解を前提としなくても可能である。表情そのものからの推測ではなく、前後の行動の記述によって十分に可能であろう。もっともこれは私のような徹底的行動主義者のはしくれ(異端)の考えであり、麻生氏御自身はそれでは不満、おそらく、行動には現れない他者理解の実質(内容)を追究しておられるのであろうと、「我々の他者理解を前提」にして他者理解しておこうかと思う。

次回に続く。