じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
【思ったこと】 _c0423(月)選択はどこまで重要か?(1) 教養ガイダンス科目で、コロンビア白熱教室でお馴染みのシーナ・アイエンガー教授の『選択の科学』の話題を取り上げた。 自由主義社会においては、職業や配偶者など人生を左右する重大な選択はもとより、日常生活のあらゆる場面において主体的な選択が求められている。選択肢をあまり増やさず、かつ、時には理性ではなく直感を頼りに的確な選択を重ねていくことが幸福の必要条件であるという点は確かにそうであろうとは思う。 もっとも、私自身は、選択自体にはそれほど重要だとは思っていない。自分で選択したことであっても、周囲から頼まれた不本意なことであっても、大切なことは、それに誠心誠意取り組み、継続させ、結果として何らかの成果を得て、さらなる可能性を広げるところにあると思う。 今年の元日に書いたように、人生はしょせん種々の活動の束のようなものであり、それぞれの年齢において「できること」エリアに含まれている活動に一生懸命取り組むかどうかが重要な課題となる。しかし、どういう活動に取り組むかという「選択」はそれほど重要だとは思えない。偶然のきっかけであっても、深く考えた上での決断であっても、選択したあとの活動にはそれほどの差違はない。どういう経緯でその活動を始めるようになったのかという経緯よりも、そのあとの遂行こそが重要な鍵となる。 そういう意味から言えば、職業や結婚の場合も、選択そのものが重要なのではなくて、いったん選択した後で、それらをどうやって円滑に継続していくのか、と考えたほうがよいように思う。いったん就職後に早期に離職してしまう人も、離婚した人の場合もそうだと思うが、離職や離婚といった「失敗」は決して選択時点での誤りに原因があるわけではない。選択した後の活動そのものに問題点があったと考えるべきである。離婚について言えば、配偶者の選択自体が間違っていたわけではない。結婚後に、夫婦生活を継続させていくための努力や工夫を怠ったことが主要な原因になっているのではないかと思う。 そもそも選択というのは、実際に活動に取り組んでいる状態ではなくて、それより前の、どういう活動をしようかと悩んでいる時の状態のことを言う。複数の選択肢が用意されているほうが画一的に何かを行うより良い、などと言われることもあるけれども、単一の選択肢(←要するに、選ぶ機会が無い)であっても、その中味が充実した活動であればそれにこしたことはない。 選択肢が多すぎたり、選択できる機会があまりにも高頻度に出現してしまうと、逆に迷ってばかりで先に進めない。「直感」で選ぼうが、くじ引きで決めようが、とにかく、いったん1つに絞り込まれたからには、早急にその活動に取り組んだほうが遙かに生産的であろう。 次回に続く。 |