じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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2012年版・岡山大学構内でお花見(52)マメアサガオ

 野生化した丸葉系朝顔とマルバルコウに混じって、白花のマメアサガオがいっぱい咲いていた。2011年10月2日の写真と同じ場所で撮影。

 岡山では比較的珍しいが、繁殖すると農作物に被害を与える恐れがあるようだ。京都府外来生物データでは、
  • カテゴリー 被害危惧種
  • 被害状況 群生するため、他の植物を圧倒。しかし日本では帰化植物の多い育成地に生えるため特に被害は認められない。ダイズ類。トウモロコシ類など畑への侵入を防ぐことが大事。
  • 必要な防除対策 本国ではトウモロコシ、ダイズ、ワタなどの耕作地で農業被害が報告されている。発見次第抜き取ること。
とされていた。

 ※岡山大学構内の花だよりのアルバム(追記更新型)を下半期上半期に分けて公開中です。下半期分は随時追加していきますので、時たま覗いていただければ光栄です。

9月5日(水)

【思ったこと】
_c0905(水)日本質的心理学会・第9回大会(4)個人の準拠枠の変容をTEM・TLMGで描く(4)等至点をめぐる独り言

 昨日の日記に続いて、

●制度的な組織の境界を超えた繋がり、活動、学習による個人の準拠枠の変容をTEM・TLMGで描く

の話題。企画者による「TEM」(Trajectory and Equifinality Model:複線径路等至性モデル)と、「TLMG」(Three Layers Model of Genesis: 発生の三層モデル)の説明では、まず、TEMの特徴として、
  • 回顧型研究であること
  • 経路の収束を促すものに焦点化
  • 選択経路の可視化
  • 必須通過点(OPP)を特定しそこへ向かわせる文化的圧力が描かれていないという限界(森・香川)
  • 物語と履歴の区別に無頓着であるという問題点。
  • 等至点を定めた物語の構築の可能性が高いという問題点。
があることが指摘された。

 ちなみに、私自身は、分岐点(BFP)は分かるとしても、等至点(EFP)なるものが本当に「等至」なのかどうかについて、十分に理解できていない。そのこともあって、TEMの考え方にはイマイチ馴染めないままでいた。

 この機会にこちらのサイトで復習してみると、まず、TEM(複線径路・等至性モデル: Trajectory equifinality model)については、
人間の成長を時間的変化と文化社会的文脈との関係の中で捉え,記述するための方法論的枠組みで,等至性(Equifinality)という概念を発達的・文化的事象の心理学的研究に組み込もうと考えたValsiner(2001)の考えに基づくものである(Valsiner & Sato, 2006)。
という説明があり、等至点(Equifinality Point.EFP)については、
多様な経験の径路がいったん収束する地点
であるとされている。さらに検索すると、
  • 「等至点」とは,研究者が研究目的に基づき,等しく至るとして焦点を当てた点である。なお,価値づけを中和する意味で,ある行為に対する補集合的行為(例えば「子どもをもつ」に対し,「子どもをもたない」)を考え,それを「両極化した等至点」として設定することもできる。【出典
  • TEM は,等至性(Equifinality)の概念を文化心理学や発達心理学に取り入れようとしたValsiner(2001)の創案に基づく。個々人がそれぞれ多様な径路を辿っていたとしても,等しく到達するポイント(等至点)があるという考え方を基本とし(安田, 2005),人間の発達や人生径路の多様性・複線性の時間的変容を捉える分析・思考の枠組みモデルである。【出典
というような説明がヒットするが、1番目の抄録で例示されている「子どもを持つ」、あるいは2番目の論文で例示されている「親友になる」、いずれにおいても、外形的には、1つのカテゴリに集約され等至であるように見えたとしても、過去の経路が異なれば、全く異なった意味を持ってくるように思える。例えば後者では、親友になるプロセスが、何らかの協同作業によるのか、ライバル関係の発展なのか、不幸な出来事を乗り越えたことによるのかでは、同じ「親友」というカテゴリで表現されたとしても、親友関係の中味はそれぞれ別々であると思うし、その後の経路も違ってくるように見える。

 昨日の日記でも述べたが、我々は、日常生活の中で、時々刻々、多数の能動的選択に迫られている。さらには、全くの受身的な選択や、何らかの偶発的要因により、想定とは異なる経路に分岐させられるということもある。選択肢が2通りであったとしても、分岐の機会がn回あれば、2のn乗通りというように、経路は無限大に拡散していくであろう。とはいえ、職業の数を大ざっぱに分類して100通りと考えれば、どんなに無限大に拡散しても、職業としての到達点は100通りのいずれかにならざるをえない。そのことが見かけ上の「等至点」のように見えてくることは確かであろう。結婚の相手などもそうであり、いくら日本の人口が多いといってもせいぜい1億2000万人。そのうち、20歳代の若者が結婚相手として選べるのはせいぜい500万人くらいであるし、会社や地域といった交流可能な範囲を考えると、いくら多様な交際のプロセスがあったとしても、けっきょく相手候補の数はきわめて限定的であり、最後はそのいずれかの人に「収束」する可能性が高い。ま、そういう意味での外形的な「等至点」というのはあるとは思うが、なにゆえに等至を強調しなければならないのか、私にはイマイチ分からないところがある。まして、「研究者が研究目的に基づき,等しく至るとして焦点を当てた点である」として定義されてしまうと、等至点の数は、研究目的の数だけ恣意的に存在する可能性があるようにも思えるし、研究目的が無ければ、等至点も存在しないという意味にもとれる。そうそう、そう言えば、私には、「焦点化」という考え方自体がイマイチ納得できない部分もある。そこをスッキリさせない限りは、等至点の意味をとらえることはできないのかもしれない。

 次回に続く。