じぶん更新日記1997年5月6日開設Y.Hasegawa |
【思ったこと】 _00904(月)[_008PC]ウルムチ、北京のあまりの変わり様に..... カシュガルからは、深夜便でウルムチに到着、ホテルで数時間の睡眠と朝食をとったあと、午前の便で北京へ。ここで一泊し、翌朝出発のパキスタン航空で成田に向かうという2泊3日の行程であった。この時の写真を、こちらにアップした。 ウルムチは、20年近く前の冬、上海〜ウルムチ〜石河子〜トルファン〜敦煌〜嘉峪関〜蘭州〜上海というコースで中国国内のシルクロードを巡った時に、その出発点として訪れた町であった。友好団でない一般旅行客を対象とした団体ツアーがシンチャン・ウィグル自治区に入るようになったのは、わずかその4〜5ヶ月前からのこと。旧ソ連将校の宿泊施設を改造したと思われる「ウルムチ賓館」という石造りの洋館でアットホームな接待を受けたことを思い出した。厳冬期であったため市内には20cmほどの雪が積もり、工場の煙突や民家のストーブから出てくる煤で黒ずんでいた。通りにはロバや、鼻の周りを息で真っ白に凍らせたラクダが通り、シルクロード観光の出発点にふさわしい風情を味わうことができた。 今回のウルムチ滞在はきわめて短時間であり、市内を巡る余裕は無かったが、その変わりぶりには全く驚かされた。写真2にあるように、ホテルの24階から眺めた中心部の方向には高層ビルが建ち並んでいた。というかそもそも24階のホテルが存在していること自体が驚きだった。ホテルから空港に至る道はきっちりと整備されていた。町の外れで荷車をひくロバを2頭目撃しただけ。もはや中心部に入ることはできないのだろうか。 帰路の最終滞在地の北京にはその日の昼過ぎに到着した。北京市内に入るのは今回が初めてだが、上記の中国シルクロード周遊旅行よりさらに昔の1979年の8月、キリマンジャロ登山の帰りに、数時間、空港に滞在したことがあった。この時は、パキスタンのカラチを早朝に出て北京経由でその日のうちに東京に戻るという予定になっていたが、カラチを飛び立つ直前に飛行機の故障が発見され部品交換のために大幅遅延、北京には16時頃着くはずのところが真夜中となり、東京が朝になるのを待つために北京の空港内で数時間待たされたのであった。当時はまだ四人組の時代ではなかったかと思う。空港は石造りの2階建てのビルが1棟だけ。詰め所では、まだあどけなさの残る若い女性が、軍服を着て、「解放軍報」を読みふけっていたのを思い出す。 今回訪れた北京は、その時の北京とは全く別の国に来たと思わせるような変わりようで、空港には欧米からの航空機が多数並び、ターミナルビルは関空を思わせるような大施設となっていた。 市内の様子も、昔訪れた上海の景色を元に描いていたものとは全く違っていて、近代的なビルが建ち並ぶ。人民服や人民帽などどこにも見あたらない。ちょうど日曜日ということもあり、町にはアベックもたくさん見られた。 人々の変わり様で驚いたのは外見だけだけではなかった。昼食や夕食をとったレストランでは、ウェイトレスが積極的に土産物のセールスを始めた。景山公園の入口では、しつこい物売りに混じって、手を差し出してお金をせびる乞食まで現れた(写真9)。専用バスでこの公園から帰る間際には、裸の子を抱いた女性が、拝むようにして1000円くれと言う。そのまま無視してバスに乗ると、今度は外からガラス越しになお拝み続ける。バスが発車するときになって、ようやく、腹立たしそうにガラスをこつんと叩いてそこから立ち去った。毛沢東主席がこういう光景を見たらどう思われたことだろうか。 このほか、町中のマクドナルドの店(写真7)、景山公園の頂上の賽銭箱(写真12)、ホテルの隣のキリスト教会(写真15)などにも驚かされた。やはり私の頭の中には、私が中学生の頃に北京放送のラジオでよく聴かされた「偉大な指導者、毛主席」、「全世界のプロレタリアート団結せよ!」のイメージが根強く残っているようだ。ためしに新米のガイドさんに「あなたの尊敬する人は誰ですか」と聞いたら「大学の先生」だと言う。「毛沢東は尊敬しないのですか」とさらに聞いたら、「私は毛沢東の思想が全部正しいとは思っていない」という率直な答えが返ってきた。 町の中ではまた「○○集団」という看板が目についた。ここでいう集団は「協同組合」というよりはむしろ「企業体」に近いものではないかという印象をもった。上に述べたように貧富の差が拡大しているものの、中国の経済が確実に発展していることは確かである。21世紀の遅くない時期に、その経済力は日本を凌ぎ、日本中心のアジア経済は終わりを告げるかもしれない。そして日本の経済界は、アメリカ依存型の道を進むのか、中国依存型に方向を変えるのか、重大な岐路に立たされることになるのではないかと感じた。 |