じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa



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しごと、余暇、自由、生きがいの関係を考える

2000年4月30日〜



4月30日(日)

【思ったこと】
_00430(日)[心理]しごと、余暇、自由、生きがい の関係を考える(1)

 5月1日は労働者の祭典、メーデー。ところが連合は4月18日、1921年以来の方針を変更し、来年から4月28日に変更する方針を固めたという【決定ではない】。これは、5月1日の実施すると大型連休がつぶれるという組合員の声を反映したものであるというが、労働者の祭典より余暇を求めるというところに、いま風の労働観が強く表れているように思えてならない。

 いっぽう、毎日新聞4月28日記事によれば、3月の完全失業率は4.9%で過去最悪状態。もっともこれは、高校や大学を卒業した若者が貧苦にあえいでいるわけでもない。倒産やリストラに伴う失業ばかりでなく、毎日新聞3月9日記事で指摘されているような「バラサイト・フリーター」も社会問題化しつつあるようだ。

 こうした傾向には、近代社会において、働くということが必ずしも生きがいになりえないという背景がある。そこでこの日記でも、連休を利用して、しごと、余暇、自由、生きがいの関係について考えてみようと思う。ここで大いに参考になるのが4月21日の日記で取り上げた

内山節:『自由論---自然と人間のゆらぎの中で』(1998年、岩波書店、ISBN4-00-023328-9)

という書物である。内山氏の主張と行動分析学的視点を織り交ぜながら、私なりの考えを述べていきたいと思う。

 時間が無いので、本日のところは、余暇論についての内山氏の主張を引用するにとどめる。内山氏は、
余暇とは、漢字のままに表現すれば、余った暇な時間ということになるのであろう。とすれば、余った暇な時間とは何なのであろうか。それは単に労働時間以外の時間ということなのであろうか。[p.145]
として、余暇についてのあやふやな捉え方を批判しておられる。そしてその原因として、近代的な賃労働において、工場における労働の基準が時間になったこと、もっと一般的に言えば、現代の経済社会では人々は時間を軸にして物事を考える習慣をみにつけるようになり、仕事の達成感や生活の充実感よりも、時間を重視する時代がはじまったことが、現代における余暇というあやふやな概念をもたらしたと指摘している[p.147-148]。

 このあたり、ゴールデンウィークをどう過ごすかを考える上で大いに参考になるかと思う。次回以降に続く。


5月31日(水)

【思ったこと】
_00531(水)[心理]しごと、余暇、自由、生きがいの関係を考える(その2)企業労働はなぜ最高の生きがいの場とならないのか

 4月30日の日記の続き(初回は4月21日の日記)。5月の連休中に取り上げる予定だったが、バスジャック事件発生などのために他分野に話題が拡散しとうとう1カ月もぷろくら(先延ばし)になってしまった。間隔が開いてしまったので、この連載で中心的に取り上げる内山節氏について、もうすこし紹介を加えさせていただく。

 ネット上で検索したところでは、内山氏の著作は約30冊。労働過程論に関する初期のものもあるが、最近では『自然と労働』(1986)、『時間についての十二章』(1993)、『子どもたちの時間』(1996)など、自然とのふれあいや自由や時間の意味を論じた書物を公刊されている。農山村で行われる体験企画やナショナルトラスト等の講演会にも招かれているようだ(gooでヒットしたものをいくつか挙げれば群馬県全国植樹祭東京都青年の家ナショナルトラストなど)。

 哲学者と言うと、デカルト、カント、ヘーゲルといった偉大な哲学者を柱にした文献資料中心の研究を思い浮かべてしまいがちであるが、この内山氏の場合は全く違う。行動し実践する哲学者と言ってもよいかと思う。

 この書の内容は、近代的自由の本質、時間と自由、循環系社会、社会主義崩壊、人間的知性と不自由など多岐にわたっているが、この連載のテーマである生きがい論との関係で言えば、現代的労働の動揺について論じた第六章と、企業と人間の関係を論じた第八章が大いに参考になるように思う。

 さて、この書の最大の意義は、

働くことはなぜ最高の生きがいの場とならないのか

という、現代人の多くが懐く疑問に対して、1つの明解な解答を示しているところにある。そもそも、労働は賃金、売り上げ、完成といった諸々の好子によって強化されるものである。とすると、労働自体はスキナーの生きがいの定義:
生きがいとは、好子(コウシ)を手にしていることではなく、それが結果としてもたらされたがゆえに行動することである[行動分析学研究、1990, 5巻, p.96. 佐藤方哉訳を長谷川が一部改変]


に完全に一致するはず。にも関わらず、そして奴隷や囚人でないにも関わらず、我々が労働を時として義務的に感じ、休息や趣味に興じることに生きがいを見いだしがちであるのはなぜだろうか。「労働自由」ではなく「労働からの自由」を求めるようになってしまったのはなぜだろうか。

 内山氏は、これについて次のような原因を挙げている[以下、いずれも長谷川による要約]。
  1. 労働力不足の時代に就職先を求めた人と、労働力過剰の時代に求職活動をおこなった人とでは、可能性が大きく異なることにも反映されるように、近代的雇用では、労働を開始する前に、偶然と不安に満ちた近代的雇用に、身をゆだねる必要性が生まれる。[六章、101〜103頁]。
  2. 今日の社会では、何が必要で、何が不必要なのかもわからない。労働によって生み出される商品が人間の暮らしにとって本当に必要なのかどうかは分からない。それゆえ、労働をとおして、人間の社会に有用な活動ができるかどうか分からない。社会に貢献するといった労働の感覚が消えれば、労働は個人生活のための手段になっていく。一面では労働を収入を得るための手段にし、他面では自分の働きぶりに自己満足するための手段にする。すなわち、ひたすら我がために、私たちは働くようになる。こうして労働は、エゴイズムに支えられた活動へと変貌する。[六章、103〜105頁]。
  3. 経済活動のなかでは、仕事をするのは誰でもよい。かけがえのない一人の人間として仕事をしているつもりなのに、経済活動のなかでは、代替可能な一個の労働力にすぎないことを知らされる[六章、104〜105頁]。
  4. 労働が不自由なものになっていると感じさせるものは、単純労働や肉体労働そのものにあるのではなく、その労働と全体の労働との関係が協調的に営まれているかどうかとか、その労働と自分の形成との関係や社会との関係が、どうなっているのかという方に原因がある[六章、111〜112頁]


 このうち特に2.に関して、内山氏は、日本の風土的伝統の中で、「幸せな労働」が、「自分自身の腕や知恵の向上」と「社会的貢献」という形で結びついてきたこと、ヨーロッパでも一般的な庶民の労働観に限れば同じ感覚があったことを強調しておられる[六章、108頁]。企業労働に生きがいを見出せない人々が、教養講座や仕事と直接関係のない資格取得講座を受講することで「自分自身の腕や知恵の向上」をめざし、ボランティア活動を通じて「社会的貢献」をめざすというように、労働の外の世界に幸せの場を求めていることはこれを傍証するものと言えよう。

 以上に紹介した内山氏の考えは、賃金というような断片的な好子付加的に随伴させるだけでは生きがいをもたらす労働が保障されないことを明確に指摘していると言えよう。じつは、こうした考え方は、スキナー自身の講演の中でも主張されてきた。スキナーは
産業革命は労働者の働きがいに大きな変化をもたらしました。...【産業革命以前の職人たちの場合は】仕事のどの段階においてもすることの一つ一つが何らかの直接的な結果によって強化されていました。ところが産業革命以後は、仕事が細分化されその一つ一つが別の人たちに割り当てられるようになったがために、金銭以外の強化子はなにもなくなってしまいました。行動のもたらす自然な結果というものがなくなってしまったのです。マルクスの言葉をかりれば、労働者はその生産物から疎外されてしまったのです。...労働と最終生産物の関係を明白にすることも大切です。[行動分析学研究、1990, 5, p.91〜92. 佐藤方哉訳から抜粋]


と指摘している。内山氏は、この視点に加えてさらに労働の社会的役割(=社会的好子)、自己の向上(=行動の精緻化とリパートリーの拡大がもたらす行動内在的な好子)、そしてそれらを保障する風土的伝統というものにも目を向けさせてくれる。次回以降に続く。


6月2日(金)

【思ったこと】
_00602(金)[心理]しごと、余暇、自由、生きがいの関係を考える(その3)「迷惑をかけないが美徳」ではなく「よい迷惑をかけあう」という発想

 月初めの日記猿人の話題を取り上げたために一日遅れてしまったが、6月1日の昼食時にNHK教育TV「にんげんゆうゆう」の再放送を見た。この日の話題は「えんとこ」という2回シリーズの1回目だった。幸い、その日の夜に19時半から2回目のほうも見ることができ、こちらのほうはビデオに録画した。

 「えんとこ」というのは、脳性麻痺で介護を受けている遠藤滋さんが開始した介護ネットワークの名称。自主上映の映画にもなっており、番組にもその映画監督の男性が出演されていた。

 遠藤滋さんは1947年生まれ。1歳の時に脳性麻痺と診断されるが、数々の困難を克服し、1969年に立教大学に入学。1974年に同大学を卒業し、重度の障害を抱えながらも養護学校の教員をつとめる。その後病状が悪化したために1989年に退職し、1991年に介護ネットワーク「えんとこ」を開始。殆ど寝たきりの状態とはいえ、「えんとこ」を通じて1000人を超える介護ボランティアと交流し、時にはベッドに寝た状態での講演をしたり、海水浴にも行っているという。

 2回の番組を通じて、遠藤さんの言葉で印象に残ったことが2つある。1つは養護学校での講演の時に語られたもので
置かれた状況の中で..........それを引き受けて..........その中でやれる限りのところまでやってみる
という姿勢だ。これは、行動分析が発達障害の問題に取り組むときによく言われる
  • 原因が脳損傷であれダウン症であれ、とにかく、いまの時点で何ができて何ができないかを正確に把握すること
  • その上で、いまできないことについて、やれる限りのところまで改善に挑戦する
という基本姿勢と一致するものでもあるし、末期癌の患者さんが、自分が治らない癌であるという事実を受け入れた上で、残りの人生にやれる限りのことをやっておこうと言い聞かせながら日々を前向きに生きるという姿勢にも通じるものがある。といっても私自身、その状況になってみなければそういう生き方ができるかどうかは分からない。ショックのあまりに錯乱状態に陥ってしまうかもしれない。そういう意味では、現実にベッドの上で途切れ途切れに発せられる遠藤さんの言葉には特別の重みが感じられた。

 もうひとつ、これはチャンネルを合わせた時にすでに始まっていた部分なので不正確な引用にならざるをえないが、遠藤さんの作った歌詞の中に「迷惑をかけてもいいじゃないか。思ったことをやり通せ。どうせ人は一人じゃ生きられないのだから」という趣旨の一節が含まれていたように記憶している。私がテレビを見始めた時には、出演者の方(柿沼アナ、映画監督、「えんとこ」のスタッフ)のあいだで、
わたしたちは子どもの頃から、「人に迷惑をかけることをしてはいけない」と教えられてきたが、遠藤さんは、そういう遠慮はしない。それと、迷惑をかけていると思っていたことが逆に相手を助けていたということもある
というような会話が交わされていた【このあたり、記憶は不確か】。要するに、我々が前向きに生きていくためには、いちいち「これは人に迷惑をかけることになるのだろうか」などと躊躇してはいけない」ということかと思う。

 確かに、人間、生きている以上は周囲に何らかの迷惑をかけるものだ。道を一歩一歩あるくたびに、地上のアリや蛙を踏みつぶすこともある。何気なく発する言葉が聞き手に不快感を与えることもある。競争的状況のもとで、自分一人が合格あるいは採用ということになれば、それは不合格者や不採用者に迷惑を及ぼしたとも言える。そして、いずれ、年をとって介護を受けるようになれば、配偶者や子ども、親戚に多かれ少なかれ迷惑を与えることになる。そして集中治療室で治療を受けることも、他の重症患者が治療を受ける機会を奪っているという点で迷惑をかけていることになる。

 では、この世界から消え去ることが「迷惑をかけない究極的な生き方」になるのかと考えてみても、かりに自殺をしても、残された家族は生活に困るかもしれないし、最低限、葬儀や相続で手間をかけさせることになる。けっきょく、この世界に生まれてきてしまった以上は、人間も動物も最初から周囲に迷惑をかける宿命を背負って存在していくしかないということになるだろう。

 そのさい、
  • 「迷惑」をお金の貸し借りのように負の贈り物としてとらえるのか、
  • それとも、「じつはそれは迷惑ではない」とポジティブに捉え直すべきなのか
ということで価値観が根本的に分かれる点にも留意する必要がある。

 前者は、契約社会型の生き方、「お前はこれだけ私に迷惑をかけたのだから、今度は、私からもこれだけの迷惑をかけさせてもらおう」というギブ&テイクの考え方、あるいは「これまでずっとご迷惑をかけてきたので、これからは恩返しをします」という報恩主義的な考えがこれに含まれる。

 いっぽう後者は、迷惑行為の中に、傍若無人で根絶することが求められるような「存在に値しない迷惑」とは別に、「相手を活かす迷惑」というものがあることを期待する。迷惑を全面否定するのでもなく、居直って全面肯定するのでもなく、そうした2つの迷惑を見極めた上で、「お互いを更新」できるような迷惑を生活の中に積極的に取り込んでいこうという考え方だ。この連載では、後者の見方を追求していきたいと思っている。

◆◆関連サイト(この日記を書いた時点では、まだ以下のページにはアクセスしておりませんでした。内容を拝見した上で後日追記予定)


6月4日(日)

【思ったこと】
_00604(日)[心理]しごと、余暇、自由、生きがいの関係を考える(その4):「相手を活かす迷惑」とコミュニケーションの定義

 6月2日の日記の続き。最初に、前回の日記の副題で“「よい迷惑をかけあう」という発想”と書いたことについて、Island LifeのShiroさんが6/2付の日記の中で
  • 「良い迷惑」(6/2) なんてものはあるのかなあ。衝突があって、その衝突が ネガティブに受け取られたら「迷惑」、ポジティブに受け取られたら「刺激」と 解釈されるだけのように思える。
  • .....「人に迷惑をかけてはいけない」という場合の多くは、 自分の基準を中心にした「迷惑」を無批判に他人にも適用しているだけなんではないか。傲慢だと思う。
  • .....もし、その人が目的を実現するための手段が、世間一般のマナーとしては迷惑だと 考えられていることであったとして、常識を理由にその人の目的を潰すようなことが あれば、私はそちらの方が罪が重い(あくまで私の中で、ね)と思う。
  • 極端な話、 何も生み出さず、何のコミットメントも持たずに生きている人は、それも一つの生き方だから否定しないけれど、邪魔にならないところにどいててね、ということだ。
[長谷川のほうで要約]
と書いておられたので、本日はこのことについて私の考えを補足させていただくことにしたい。

 Shiroさんが指摘された点はいちいちもっともなところがあるけれど、私が使った「良い迷惑」というのは、「相手を活かす迷惑」という意味。これも結果次第の話なんで、迷惑を及ぼしている時点では、それが相手を傷つけたり相手の夢をつぶすだけのものなのか、結果的に相手を活かすことになるのかを事前に推し量ることはできないのだが、いずれにせよ、「give & take」や報恩主義とは異なる何らかのポジティブな「迷惑」があるかもしれないというのが前回の日記で言いたかったことだ。

 例えば、以前何かのニュースで聞いたことがあるけれど、体が元気なうちに自分よりもっと高齢のお年寄りの介護に参加し、これをポイントとして貯めておくという「互助会」のようなシステムがあると聞いたことがある。この場合、すでに介護を受けているお年寄り自身はもはやポイントを稼ぐことはできない。いま介護に携わっている人たちが介護を受けるのは、その次の世代の新入会員たちである。このシステムであれば、「人に迷惑をかけたくない」と思って生きてきた人たちでも、「私は、過去○年間にわたって自分より高齢の方々の介護をしてきたのだから、自分が介護を受けても当然。」という論法で遠慮なく介護を受けることができる。これは基本的には「give & take」、(時間的にみて「逆行性」の)報恩主義、あるいは借金相殺の発想ではないかと思う。

 これに対して、「相手を活かす迷惑」の場合には、ポイントがあっても無くても介護を遠慮なく受けることができる。いちばんの違いは、被介護者が一方的に何かをしてもらうのではなく、被介護者と介護者の間の双方向の「活かしあい」を前提としているということだ。

 もちろん、相手を活かす機能が確認された時点で、もはやそれは定義上「迷惑」とは言えない。『新明解』によれば迷惑とは
迷惑:その人のした事が元になって、相手やまわりの人が、とばっちりを受けたり、いやな思いをしたりすること[古語としては、どうしたらいいか分からなくて自分が困る意]
とされているからだ。「良い迷惑」というのは「表面的な迷惑」と「本質的な活かし」を同時に表す表現と言ってもよいかもしれない。

 もっとも、この「活かしあい」が成立するためには、完全に独立した存在としての個人観に代えて、ある種の関係性の中に個人をとらえていくという姿勢が必要となる。これは、この連載の中心的なネタ本となる内山節氏の主張にも共通するところがある。4月21日の日記に紹介したように、近代思想は、個人を固有のものとして、つまりすべての関係性を断ち切っても、なお個人という実体が存在すると考えた。内山氏の立場はこれに対して、その関係をすべて失ってしまったら、私という個人もまた成立しえないという考えが土台になっている[p.327]。

 それから、私は「活かしあい」は「癒しあい」とは違う意味で使っている。もっと能動性が高く前向きのものを想定しているのだが、時間が無いのでこれについては別の日にまとめてみたいと思う。

 ここで突然話題が変わるが、「相手を活かす迷惑」のことを考えているうちに、だいぶ前に翻訳した本にあった動物コミュニケーションの定義のことを思い出した。

 ハリデイとスレイターの本に引用されているMarler(1967)の定義によればコミュニケーションの本質的特徴は
参加者間の共動的な“相互作用”synergistic interplayであり、双方がそのやりとりの効率を最大限に高めようと努力していること[『動物コミュニケーション--行動のしくみから学習の遺伝子まで』、ハリデイ・スレイター著、浅野・長谷川・藤田訳、1998年、西村書店]
であるという。もっとも、異種間のコミュニケーションのなかには、はぐらかしディスプレイや擬態のように例外的なものもあるという。ピアスの本に引用されていたSlater(1983)によれば、コミュニケーションは
1匹の動物から別の動物への合図の伝達であり、概して受けての反応によって送り手が得をするような性質のもの[『動物の認知学習心理学』、ピアス著、石田・石井・平岡・長谷川・中谷・矢澤共訳、1990年、北大路書房]
Slater(1983)が「概して送り手が得をする」と特徴づけたのは、受けてが常に得をするとは限らないという事例をとりこむためであったようだ。

 こうした動物コミュニケーションの事例が人間社会の双方向の働きかけの理解にどこまで役立つのかは定かではないが、生物的に裏付けのあるものはそれだけ堅固で安定しやすく、裏付けの無い場合には人工的な環境整備が必要になってくるという目安にはなるかと思っている。


6月7日(水)

【思ったこと】
_00607(水)[心理]しごと、余暇、自由、生きがいの関係を考える(その5):介護を受ける意味と「畳の上で死にたい」

 共済組合から介護保険の仕組みを説明するパンフが配られていた。そういえば、今年の4月から、給与明細書のところに介護掛金の項目が追加され、すでに天引きが始まっている。パンフによればこれから64歳までは第2号被保険者として、さらに65歳以上になれば第1号被保険者として介護保険料を払い続けることになるようだ。

 そもそも介護保険とは何か? このパンフ(文部省共済広報・号外)によれば
 高齢化の進行とともに加齢に起因する疾病病等により、介護を必要とする者が増大し続け、これまでのシステムでは適切な対応が困難となってきたため、介護を要する状態になってもできる限り、自宅で自立した日常生活を営めるように、必要な介護サービスを総合的・一体的に提供する利用者にとって利用しやすい制度です。
 介護問題はだれにでも起こり得ることがらであり、自己責任の原則と社会的連帯の精神に基づき、40歳以上の全国民で公平に制度を支える仕組みとなっています(介護保険法第1条)
となっている。また、パンフの別の場所には、
.....介護が必要になっても、残された、残された能力を生かして、できる限り自立し、尊厳を持って生活できるようにすることは、私たちの願いです。しかし現実には家族だけで介護を行うことは非常に困難になっています。
 介護保険は介護を社会全体で支え、介護の必要な状態になった方が自らの選択により保険・医療・福祉にわたる介護サービスを安心して受けられる制度です。この制度は、市町村及び特別区が保険者となり、国・都道府県及び40歳以上の国民で支え合います。
とされている。これらの資料から、現行の介護保険制度の趣旨を私なりに理解すれば
  • できる限り自立し、尊厳をもって生活することが基本
  • できる限り自宅で自立した日常生活を営めることが基本
  • 家族だけで介護を行うことが非常に困難であるために必要とされる制度
  • 介護の認定を受けるには被保険者が自ら選択することが前提
  • 自己責任の原則と社会的連帯の精神に基づく
  • 40歳以上の全国民が公平に負担
ということになっているようだ。実態はともかく、「自立」、「自宅」、「家族」がキーワードになっていることは間違いなさそうだ。

 このことを考える上で、先週木曜日(6/1)の21時15分からに放送されたNHKにんげんドキュメント「畳の上で死にたい」は大いに参考になった。紹介されたのは、長野県伊那谷南部にある泰阜(やすおか)村。人口2200人の村に40人の介護スタッフが常駐し、村の予算2億円の1/4を介護にあてている。村道の半分は未舗装だというが、村では「土木工事よりも幸せな老後」をめざして、在宅福祉重視の政策を徹底している。そんななか、16年間に224人の方が、在宅の老後を全うして亡くなった。現在介護を受けているのは53人であるという。

 番組ではSさんとIさんという二組の老夫婦のケースが詳しく紹介されていた。このうちSさんは79歳。長年、山仕事の親方として活躍したが、現在では殆ど寝たきり。それでも奥さんと二人で何とか暮らしてきた。奥さんも必ずしも健康とは言えないので、村内の特別養護施設への入所を勧められるが一旦は拒否。しかし結局は一時的な入所を受け入れる。番組では、在宅介護を受けている時の場面、妻が一時入所する夫を送り出す場面、ふたたび帰宅し、目の見えない夫を車椅子に乗せて眺めのよい場所に連れていき、あたりの様子を言葉で伝えている場面が紹介されていた。

 もうひとつのIさんのケースでは、83歳の夫に痴呆の症状が現たため、やむなく入所を決める。妻の77歳も体の一部が麻痺しておりビール瓶を入れるケースに掴まりながら歩いていた。入所の日、妻は夫に「ここで世話になるんだよ」、「私は留守番しているから」などと言い聞かせるが、夫は殆ど無表情、果たして意味が理解できたかどうか不明だった。家に残った妻は、張り合いを失い、家に籠もりがちになってしまう。そんな妻が語ったのは
昔のように暮らせばいいが、夢だな。でも夢を持たんよりはいいがな。...人になるたけ迷惑かけんように暮らしていきたい。
そして
子どもが順に成長していく時代がいちばん楽しい。エライけど、夢中で働けるし、いちばんいいと思う
というように言葉少なげに語っていた。

 山村での在宅介護は、住み慣れた家で暮らし、慣れ親しんだ景色を眺めながら畳の上で死を迎えたいというお年寄りたちのささやかな願いを実現するものであるが、現実には、夫婦の一方が寝たきりになった時、そしてさらには、独り暮らしになってしまった時に、いろいろな別の問題が起こりうることを示唆していた。独り暮らしの場合には、家のメンテが不十分になり、寒さのために倒れているところを介護スタッフに発見されたというケースもあったという。

 このほか、この村のように自治体が100%面倒を見てしまうと、村を離れて都会で生活している息子・娘たちのあいだに「村でみてくれるなら親を任せられる」という安心感が広がり、結果的に、親子関係を疎遠にしてしまうという弊害があるのではとの声も介護スタッフから聞かれた。その根底には、山村では生計を立てにくいという若者側の事情、さらには山村が生産と生きがいの拠点ではなく僻地になってしまっているという現在の社会的な背景があるように見えた。

 このほか、一般的な問題として、
  • 若い頃の行動リパートリーを最大限に維持・継続することがお年寄りの生きがいとなるのか、それとも加齢に伴って、「もともとの仕事」から町内会の役回りやゲートボールに熱中するというように状況に応じてリパートリーを変えていったほうが生きがいになるのか。
  • 5/31の日記でふれたような、内山節氏流の「関係性重視」の生きがい論は、このような山村での老夫婦、独り暮らしの生活とどう関連づけられるのか。例えば、介護スタッフとの人間関係でも成り立つものなのか。
  • 都会の狭いアパートに住む人にとっても「自宅」は最高の死に場所になるのか
といった疑問が出てくる。次回に続く。

[6/8追記]介護保険法全文はこちらから読めます。第一条に目的として
 この法律は,加齢に伴って生ずる心身の変化に起因する疾病等により要介護状態となり,入浴,排せつ,食事等の介護,機能訓練並びに看護及び療養上の管理その他の医療を要する者等について,これらの者がその有する能力に応じ自立した日常生活を営むことができるよう,必要な保健医療サービス及び福祉サービスに係る給付を行うため,国民の共同連帯の理念に基づき介護保険制度を設け,その行う保険給付等に関して必要な事項を定め,もって国民の保健医療の向上及び福祉の増進を図ることを目的とする。
と記されているほか、第四条1項には以下のような国民の努力規定がある。
国民は,自ら要介護状態となることを予防するため,加齢に伴って生ずる心身の変化を自覚して常に健康の保持増進に努めるとともに,要介護状態となった場合においても,進んでリハビリテーションその他の適切な保健医療サービス及び福祉サービスを利用することにより,その有する能力の維持向上に努めるものとする。


6月14日(水)

【思ったこと】
_00614(水)[心理]しごと、余暇、自由、生きがいの関係を考える(その6):スポーツが楽しみとなるのは何故だろう

 昨日6月13日の日記で河川敷の利用についての話題からの連想として
このことで思うのが、公園敷地内のグラウンド、あるいは小学校の校庭だ。スポーツ振興のためには有用かもしれないが、結果的に、自然とのふれあいを求める子どもたちを締め出している。グラウンドがあることで、子どもたちの遊びは、結果的に自然から切り離された、運動や球技主体の遊びになってしまう。ボールが隅の草むらに転がっていったとしても、それを探しに来た子どもは、平気で花を踏みしだく.....。もし小学校にグラウンドが無く、代わりに花壇や「ミニ森林」があれば、子どもたちは昼休みや放課後に思い思いに自然とふれあうことができる。
というように、スポーツ重視への若干の疑問を提出した。ここで言いたかったことは、スポーツが子どもの教育上有害だということでは決してない。遊べる時間は限られており、その中で子どもは、自然とふれあうかスポーツ設備を利用するかという排他的な選択を常に迫られている。学校の敷地の大部分がコンクリートの建物とグラウンドで占められ、校庭の片隅に学年別の花壇やウサギ小屋がある程度の環境では、メインな遊びはグラウンドを利用した遊びに偏ってしまう。このことは結果的に、自然とふれあう形の遊びを選択する機会を奪っているということを言いたかっただけのことだ。

 さて、このことは別として、そもそも多くの人がスポーツに熱中し、仕事以上に生きがいを感じるのは何故だろうか? これまでの教育の中では、スポーツ奨励が無批判に受け入れられ、その効果については「集団行動になじませる」とか「積極性や根性を養う」といった精神論に終始するところが多かったように思う。では、スポーツが学業や仕事と根本的にどう違うのは、本当はどういうところにあるのだろうか。今日は時間の関係で、思いつくところをいくつか。
  1. 仕事の場合は、「○○をすれば給料が貰える」という「好子出現の随伴性」のほか、生活を支えるために「○○をしなければ仕事を失う」とう「好子消失阻止の随伴性」が強く働き、そのために義務感、束縛感が生じる。趣味で行うレベルのスポーツの場合は、いつ止めても生活困難になることはないので、スキナーの生きがい(幸福)の定義である「行動し、その結果として好子を得る」だけで強化されやすい。
  2. スポーツの場合は、やるべき行動(競技内容)と結果(自己記録や順位、勝敗など)の随伴関係が非常にスッキリしている。仕事の場合、特に企業労働の場合は、自分のどういう行動がどういう結果をもたらしたのかがはっきりしない場合がある。
  3. スポーツの場合には、行動の量に比例して結果を得る、つまり練習などの努力に応じて向上しやすいという環境がある。企業労働の場合、特に時間給の場合は、行動の量と給料は比例関係に無い。
  4. スポーツの場合は、自分の能動的な動きが行動内在的な結果をもたらしやすい。
  5. スポーツの場合には、仲間同士の連帯感、応援、努力への賞賛というように社会的好子が付加的に随伴しやすい。仕事の場合は、自分がいくら努力しても期待通りの成果が得られない場合が多い。
 こうして考えてみると、学校教育の中でスポーツを重視することは、「能動的な働きかけに具体的で確実で適正規模の結果を与える」という随伴性を保障するという点で大きな価値があることが分かる。それがうまく機能している限りは不登校の問題は起こらないし、スポーツ少年がおおむね快活で協調的で積極的に物事にチャレンジできるという点も理解できよう。しかしそうした事例をもって、スポーツになじまない子どもを無理やり参加させれば同じように快活にできるということにはならない。逆に不得意であることが露わになることによる劣等感、無気力、仲間はずれ等を生み出すこともありうるわけだ。学校教育の中で、勉強の弊害ばかりを強調するのは当たっていない。体育はもちろん、校庭グラウンドによって規定・制約されている遊びの機会がどういう効果をもたらすかについて、マイナス面を含めて固定観念を持たずに把握することが、イジメや不登校の防止に繋がるのではないかと思う。


6月18日(日)

【思ったこと】
_00618(月)[心理]しごと、余暇、自由、生きがいの関係を考える(その7):『自由論』その後

 東京への行き帰りの新幹線の中で、この連載で中心的に取り上げる予定の『自由論---自然と人間のゆらぎの中で』(内山節、岩波書店、1998年、ISBN4-00-023328-9)を読み返してみた。この本はもともと別の連載「生きがい本の行動分析」の8回目として4月21日の日記でとりあげたのがきっかけだった。しかし、この本は、生きがいの問題にとどまらず、個人観、労働観、自由、時間、循環型社会など、いろいろな側面から現実を捉え直す貴重な内容を含んでいるため、その後、別テーマの連載に切り替えたものであった。

 4月21日の日記では、主として「生きがい論」との関連から、この本に
  • ヨーロッパ近代社会が生み出した近代的自由観を批判
  • 近代思想は、個人を固有のものとして、つまりすべての関係性を断ち切っても、なお個人という実体が存在すると考えた。本書はこれに対して、その関係をすべて失ってしまったら、私という個人もまた成立しえないと考える[p.327]。
  • 自由を固有の個人が所有する権利としてではなく、自由な関係の創造のなかにとらえるという視点[p.327]。
  • 労働は人間的で自由な営みにしなければならない。すなわち「労働の自由」をめざすという発想。
  • 労働はもともと不自由な面をもっているのであり、余暇時間がすなわち「人間的な時間」にあたる。すなわち「労働からの自由」という発想。
といった特徴があることを指摘した。これらは概ね私のもともとの考えに非常に近いものであったが、反面、3つほど私の理解が及ばないところがある。その第一は
 しかし、今日の私たちは、少し違う感覚をもっている。この世界には、科学や論理だけでは説明できないものが、たくさんあることに気づきはじめたのである。ひとつの例をあげれば、「幸せとは何か」を、科学や論理だけで説明できるだろうか。[15章-318]
全体の文脈から判断すると、この記述は反科学、非合理主義の立場を表明するものとは必ずしも言えないことが分かるが、「幸せとは何か」を「科学や論理だけで説明できない」と認めるにしても、「科学や論理だけで説明できる部分はどこまでか」を追求するのか、それとも最初から説明不能として追求を放棄してしまうのかによって、その後の方向が変わってくる。スキナーが『科学と人間行動』で表明した立場は、「幸せとは何か」を含め、人間行動の諸側面を科学的に解明することが可能であり、それですべてを解明できないとしても、とにかくそれに取り組むことが急務であるという点にあった。私もスキナーの方針を貫いていきたいと思う。

 第二は「普遍的な思想」に代えて、ローカルな思想を追求するという立場[13章、276頁]だ。これ自体は、「心理学においても、一般性抽象性の高い法則の構築・検証よりは、法則の生起条件探究型の研究を進めたほうが生産的である」という私の主張と一致するものであるが、ローカルをとことん追求していくと、地域や文化からさらにミクロな個人単位の思想になってしまいそうな気がする。そこの歯止めをどこに置くのか。他の御著書にもあたってみたいと思う。

 第三は、各所で言及されている「何ものにもとらわれない精神」が果たして可能かという点だ。何らかの対象の直面する時、我々は、ニーズ(要請)なしにそれらを受け止めることはできない。これは弁別学習全般に言えること。そして、何かを考えるには何らかの概念的枠組みが必要であり、場合によっては比較軸を設けることも必要となる。そうした枠組みや比較軸をいろいろに取り替えてみることはできるけれど、それらをいっさい取っ払った白紙の状態では何事にも対処できない。もっとも内山氏自身もそういうことを言っておられたようにも見える。もう少し読み直してみたい。

 最後に、哲学書でありながら、現実の社会をみつめ、政治経済のしくみにも細かく言及している点は、この本の最大の長所であると言えるが、家族や恋愛問題には全く触れられていないところが少々気になる。


6月19日(月)

【思ったこと】
_00619(月)[心理]しごと、余暇、自由、生きがいの関係を考える(その8):大学生は悩んでいるか

 6/19の朝日新聞「きょういくTODAY」に、「大学生は悩んでいる」という見出しの記事があった。そのなかで、「大学生活を楽しめなくなりがちな学生のタイプ」として、「幻想固執」、「ナンクセ」、「完全主義」、「休めない」、「周りに合わせる」という5つのタイプが紹介されていた[香川大保健管理センター・小柳教授らによる]。

 また同じ日の総選挙関連「教育改革」の記事の中には
「いい高校、いい大学、いい会社に行くため、と言われて勉強しても、会社の部品になって死ぬだけ」。少年事件について東京都立高校で作文を書かせると、こんな感想がいくつもあった。
というくだりもある。これら2つの記事は、方向感が定まらず、将来への展望を失った高校生、大学生が一定比率で存在していることを象徴しているように見える。

 こうした背景には、大学で学ぶということが、少なくとも一部の学生にとって手段化してしまっているという現状があるように思う。この連載で取り上げている内山節の『自由論』のなかには次のような一節がある。
人々や社会のためになる仕事をするための学問を学ぶ、敗戦から二十年間くらいの間は、多くの学生はそんなふうに考え、そこに学問への希望をみいだしていた。ところが戦後社会が安定化し、自分の一生が予想のつくものになってくるにつれて、学問はその一生をより安定化させるための手段へと変わってきた。そしてそのとき、人々は学問を学歴としてとらえるようになっていった。将来、安定した生活を得るための学歴である。

 この変化は、すべてのものを自分のための手段にしていく時代のはじまりを、表現していたような気がする。自分のための手段としての学歴、自分のための手段としての就職、極端に述べれば、労働も、文化も、地域も、家族も、ただただ自分が満足を得るための手段であるかのように、一切が変わっていったのである。そしてそのとき自由もまた、自分が安楽で気ままな生活を得るためのもの、以上ではなくなっていったのである。

 しかしそのことによって、私たちはより大きな自由を手にしていたであろうか。そうはならなかった。可もなく不可もない自分の一生がみえるようになっただけであった。社会の仕組みから逸脱さえしなければ、平均的な一生を送ることができるだろう、というだけのことであった。[『自由論』第3章、52〜53頁]
 しかし手段でも何でも、とにかく勉学に励む方向性を持っているうちはよい。その行き着く先が、代替可能な会社の部品に過ぎないというのではあまりにも空しい。そこで今度は、大学を卒業したくない、あるいは、研究に対する情熱は今ひとつだがとにかくもう少し勉強を続けてみたいということで大学院に進学するというタイプの学生が増えてくる。

 こうして考えてみると、方向が定まらない学生を作り出しているのは、必ずしも大学の中の教育システムだけに原因があるとは言えないところがある。前にも引用したように、
 ところが経済活動の面からみたときは、私たちはたちまち他の人と代替可能な人間にすぎない。経済活動のなかでは、その仕事をするのは誰でもよく、同じようにその商品の購入者も誰でもよい。そして誰でもよい「私」とは、どこにでも存在している抽象的な「私」のことであり、また「私」という具体的な人間は、どこにも存在していないのと同じなのである。

 このことは働いているものたちに苦痛を与える。なぜなら私はかけがえのない一人の人間として仕事をしているつもりなのに、経済活動のなかでは、代替可能な一個の労働力にすぎないことを知らされるからである。[『自由論』第6章、104〜105頁]
 もっとも、原因が「代替可能」だけであるならば、1970年代も1980年代も1990年代もその本質はあまり変わらないようにも見える。21世紀目前のいま、私には他にもうひとつ、非常に大きな方向転換の時期が近づいているように思えてならない。内山氏の言葉を借りるならば、それは
  • 「使用価値」から「交換価値」一辺倒になってしまったことへの反省
  • 「拡大系の経済学」の限界
  • 「肉体労働=手労働」より「精神労働=知的労働」を「幸せな労働」と見なすことの誤り
といった点に集約されるかと思うのだが、これらについては日を改めて論じることにしたいと思う。

 元に戻って、6/19の朝日新聞「きょういくTODAY」では、大阪市立大学生活科学部で昨年1月に作られた「人間関係研究会」の実践例も紹介されていた。教育臨床学のゼミ室に集まって、お互いの悩みについての話題ばかりでなく、映画や歌謡曲についても延々と雑談や議論をするということらしい。

 このような取り組みは、仲間と意見を交換するという居場所づくりのほうが、一対一のカウンセリングよりも有効である可能性を示唆している。ある程度のストレスを受けている学生にとっては、この種の心休まる場所がどうしても必要だろう。もっとも、その話題の中心が内向きでお互いが見つめ合うタイプに終始してしまうのであれば、大学環境や社会環境への適応には必ずしも結びつかない。悪く言えば、逃げ場所を作っているだけになってしまう。

 この点、少し前にも紹介した岡大生協の学生委員会の活動などは、身の回りの生活を一緒に考えていくという点で、外向き、前向きのところが大いに評価できる。今年の春の合宿には60人規模の参加があり、全体では200人規模になるというから驚きだ。私の学生時代の頃は、生協活動などというと政治活動と結びつけられがちな暗い印象があったけれど、全国規模で学生運動が衰退しイデオロギーが入りにくくなったことが幸いして、自分たちで主体的、創造的に物事に取り組める環境が整ってきたことは喜ばしいことだ。新聞社のほうでも、悩んでいる大学生ばかりを誇大に取り上げるのではなく、この種の前向きの動きにも目を向けてほしいと思う。

 それからだいぶまえの日記になるが1999年3月17日の日記で、学内の保健管理センターの精神科医の先生の小講演を聞いた話題をとりあげたこともある。この先生が言っておられたが、「大学のカウンセラーを訪れてくる学生が急増している」などというデータは、必ずしも信用できないところがある。例えば、保健センターの精神科医が非常勤から常勤に代われば、当然来談者は増えてくる。しかし、その数が限界に達してくると診療のクォリティが低下し、それ以上の伸びは見られなくなる。このほかにも、いろいろと本音を伺うことができた。目を通していただければ幸いだ。


6月21日(水)


【思ったこと】
_00621(水)[心理]しごと、余暇、自由、生きがいの関係を考える(その9):スポーツの功罪と岡山の事件

 6/21の16時40分頃、岡山県内の高校で野球部員の3年の男子生徒が後輩を金属バットで殴り、6/22朝6時の時点では行方不明になっているという。またこの生徒の自宅では母親が頭から血を流して死亡しており、母親殺害の疑いももたれているという。

 この事件については、丸刈りを強制されたことに伴うトラブル、部員間の個人的な恨みなど、いくつかの可能性が報じられているけれども、男子生徒の所在すら分からない時点であれこれと推測するのは不適切、現時点での最善の解決に期待するほかはない。

 確実に言えることは、この事件が、野球部というスポーツ活動の中で起こったことだ。少年による事件という年齢的な共通性も考慮する必要がある反面、スポーツ関連の部活動に参加することが青少年の育成にとって必ずしもプラスに働いていない点にももっと目を向ける必要があるかと思う。

 ちょうど一週間前にあたる6月14日の日記で、
.....学校教育の中でスポーツを重視することは、「能動的な働きかけに具体的で確実で適正規模の結果を与える」という随伴性を保障するという点で大きな価値があることが分かる。それがうまく機能している限りは不登校の問題は起こらないし、スポーツ少年がおおむね快活で協調的で積極的に物事にチャレンジできるという点も理解できよう。しか しそうした事例をもって、スポーツになじまない子どもを無理やり参加させれば同じように快活にできるということにはならない。逆に不得意であることが露わになることによる劣等感、無気力、仲間はずれ等を生み出すこともありうるわけだ。学校教育の中で、勉強の弊害ばかりを強調するのは当たっていない。体育はもちろん、校庭グラウンドによって規定・制約されて いる遊びの機会がどういう効果をもたらすかについて、マイナス面を含めて固定観念を持たずに把握することが、イジメや不登校の防止に繋がるのではないかと思う。
と述べたように、「知識偏重」などと称して、学校教育の問題点を勉学の指導の弊害ばかりに目を向けさせようとするのは当たっていない。スポーツに「心の教育」としての意義があることは認めるとしても、それを無批判、固定的に賛美してしまうのは問題だ。なぜ、それが「心の教育」の一環として意義をなすのか、なぜスポーツを楽しいと感じる人が出てくるのかという点についてもっと詳細に理由づけを行い、その共通認識にたった上で普及活動に力を入れていく必要があると思う。

 少し前、保健体育審議会より、「スポーツ振興基本計画の在り方について−豊かなスポーツ環境を目指して− 」という中間報告が公表された。この冒頭には、
 スポーツは、人生をより豊かにし、充実したものとする、人間の身体的・精神的な欲求にこたえる世界共通の人類の文化の一つである。心身の両面に影響を与える文化としてのスポーツは、明るく豊かで活力に満ちた社会の形成や個々人の心身の健全な発達に必要不可欠なものであり、人々が生涯にわたってスポーツに親しむことは、極めて大きな意義を有している。
 すなわち、スポーツは、体を動かすという人間の本源的な欲求にこたえるとともに、爽快感、達成感、他者との連帯感等の精神的充足や楽しさ、喜びをもたらし、さらには、体力の向上や、精神的なストレスの発散、生活習慣病の予防など、心身の両面にわたる健康の保持増進に資するものである。特に、21世紀の高齢社会において、生涯にわたりスポーツに親しむことができる豊かな「スポーツライフ」を送ることは大きな意義がある。
 また、スポーツは、人間の可能性の極限を追求する営みという意義を有しており、競技スポーツに打ち込む選手のひたむきな姿は、国民のスポーツへの関心を高め、国民に夢や感動を与えるなど、活力ある健全な社会の形成にも貢献するものである。  更に、スポーツは、社会的に次のような意義も有し、その振興を一層促進していくための基盤の整備・充実を図ることは、従前に増して国や地方公共団体の重要な責務の一つとなっている。
としてスポーツの意義が記されている。ところが、昨年9月に諮問された時点で、上記とほぼ同じ意義が、当時の有馬文相による理由書の中にすでに記されている。その一部を引用すれば
(理由)
1.スポーツは、人間の体を動かすという本源的な欲求にこたえるとともに、精神的充足や楽しさ、喜びを与えるものであり、とりわけ、青少年にとっては、心身の両面にわたる健全な発達に大きな意義を有している。
 また、スポーツは、明るく豊かで活力に満ちた社会の形成に寄与するものであり、誰もが生涯にわたって、主体的にスポーツに親しむことにより、生きがいのある充実した生活を営むことができるものである。
 さらに、スポーツは、人間の可能性の極限を追求する営みの一つであり、競技スポーツにおける選手達の極限への挑戦は、見る人にも大きな感動や楽しみ、活力を与えるものである。
 つまり、今回の中間報告に記された「意義」は、審議を尽くした結果の結論ではなく、答申を行うにあたって最初から示された前提になっているわけだ。審議会委員諸氏も、こうした意義づけは自明であって、誰も疑義を差し挟まなかったのではないかと思える。

 しかしよく考えてみると、スポーツがなぜ、「人生をより豊かにし、充実したものとする、人間の身体的・精神的な欲求にこたえる世界共通の人類の文化」になっているのか、なぜ「明るく豊かで活力に満ちた社会の形成や個々人の心身の健全な発達に必要不可欠なもの」であるのかは、重大な問題だ。現実にそういう成果が確認されていたとしても、それがどうしてそういう成果を生みだしているのかを実証的に検討していく必要があると思う。

 私自身のスポーツについての捉え方は、6/14の日記ですでに述べた通り。要するに、日常生活場面での労働や諸活動に比べると、スポーツの世界では、望ましい行動の種類が限られており、具体的に示されている点が重要。そして、それらの行動を強化する随伴性も、実状に合わせて最適な形に設定することができる。

 労働の世界では、どういう仕事をすればよいかはそう簡単には定まらない。そこに選択の迷いが生じる。さらには、せっかく一生懸命働いても、物が売れなかったり会社のリストラにあったりして報われないことが多い。その点、スポーツの世界では、努力量に応じて結果が伴うしくみが相対的にしっかりと用意されている。また、付加的に与えられる結果はルールの変更によって最適なレベルを保つことができる点でも、現実相手の労働とは異なっている。例えば、野球の世界で、将来、バッティング技術が向上したためにピッチャーがどんなに努力しても容易にヒットを打たれてしまうようになった時には、ボールの直径を小さくするとか、塁間の距離を長めにするといった形で、投手の努力に報いるように随伴性を変えることができるわけだ。

 今回の中間報告にも記されているように、もちろん、スポーツには
.....心身の健全な発育・発達を促すだけではなく、それを通じて、青少年は自己責任やフェアプレイの精神を身につけることができる。また、仲間や指導者との交流を通じて、青少年のコミュニケーション能力を育成し、豊かな心と他人に対する思いやりをはぐくむ。さらに、様々な要因による子どもたちの精神的なストレスの解消にもなり、多様な価値観を認めあう機会を与える。
という別の意義があることも重視しなければならない。もっともこれを重視するならば、一律丸刈りとか、スパルタ型、精神主義至上主義型の部活動はほんらい否定されるべきものとなるはずである。この日記で何度か引用している生活学習審議会の答申(1999.6)には
(5)子どもたちをプログラムの企画段階から参画させるような取組により、自主性を引き出す
 子どもたちの体験活動は、子どもたちに「生きる力」をはぐくむ有効な手段です。そのためには、子どもたちが主体的に考え、試行錯誤しながら自ら解決策を見いだしていくプロセスが重要になります。しかしながら、現実に意図的・計画的に子どもたちの体験機会の拡充を進めていく上で、プログラムを計画する大人がその点を忘れている例が多々見受けられます。大人が真剣に子どもたちのことを考えて計画しているにもかかわらず、そのことがかえって子どもたちの自主性や自発性を失わせる結果に終わることもあるのです。  。
 例えば、地域行事の祭りで、法被をはじめ大人たちがすべて用意し、子どもたちはただ順番におみこしをかつぐというのでは、自ら参加しているという意識はなかなか持てないでしょう。また、まちの青年たちが子どもたちのために周到な自然体験プログラムを用意し、子どもたちを遊ばせたとしても、子どもたちよりも青年たちの方がより感傷的になってしまったというのでは、誰のためのプログラムなのかわからなくなってしまいます。これらの例では、子どもたちもそれなりに楽しんでいるのでしょうが、大人が準備したプログラムの上に乗って活動しているだけで、「お客さん」になってしまっているといえないでしょうか。
というくだりがある。これはスポーツ活動でも同様。監督やコーチの有用なアドバイスに従うのは当然としても、基本は選手自身、あるいはスポーツ愛好者自身が、企画段階、練習段階から自主的に計画を立案していく環境を保障していかなければならないだろう。今回の話題の発端となった高校では、どういう流れの中で「丸刈り」が導入されようとしたのだろうか。


10月3日(火)

【思ったこと】
_01003(火)[心理]しごと、余暇、自由、生きがいの関係を考える(9):生きがい論の行動分析/TVゲームはなぜ面白いか

 後期から「生きがい論の行動分析」というテーマの授業を始めた。行動随伴性の概念的枠組に基づいて「生きがい」を考えてみようという内容。この機会に、紀要や行動分析学会ニューズレターで発表した私なりの考えをまとめてみたいとも思っている。

 最初の授業では、私がしばしば引用する、スキナーの「幸福」についての定義から出発した。この定義はそのまま「生きがい」の定義と言ってよいのではないかと思っている。
Happiness does not lie in the possession of positive reinforcers; it lies in behaving because positive reinforcers have then followed. [行動分析学研究、1990, 5, p.96.] /生きがいとは、好子(コウシ)を手にしていることではなく、それが結果としてもたらされたがゆえに行動することである。
 スキナーの言わんとしていることは、「欲しい物を手にするだけでは決して幸せにはなりませんよ。幸せは行動の中にあります。それも、能動的に働きかける行動、そして結果(=好子)が伴う行動の中にあるのです」ということになるかと思う。

 さて、問題は、この定義だけで「生きがい」の十分条件になりうるかということだ。ここでまた私がよく例に挙げるのが、
労働の中に生きがいを見出せないサラリーマンが居るのは何故か?
である。「労働(行動)→給料(好子)」が上記の定義どおりであるにもかかわらず、なぜ仕事より趣味を優先したがるのか、なぜ仕事にストレスを感じたり脱サラを志向したりする人が出てくるのか?

 これに対する答えは、スキナー自身の著作の中にもあるが、簡単に言えば
  • 阻止の随伴性:「働いて、結果として給料を得る」のではなく「毎月もらえる給料を(解雇されて)失わないために、つまり好子の消失を阻止するために働かざるをえない。これは義務感、強制感をもたらす。
  • 付加的随伴性:物を作り上げたり、何かを達成するという行動内在的な好子の随伴が失われ、定められた時間、労働に束縛されることにたいして、雇用者から人工的に好子が与えられる。
という2つの特徴が、「働きがい」を失わせているというのが私のこれまでの主張内容であった。

 しかし、このうちの後者、「付加的随伴性」vs「行動内在的随伴性」という区別については、定義上きわめて曖昧なところがあり、更なる検討が必要であると考えている。

 例えばTVゲームで、あるダンジョンをクリアするというのは、付加的随伴性なのだろうか。ゲームの中で経験値を増やしたり、技を上達させたり、より強力な武具や防具を手に入れるというのは付加的随伴性なのだろうか。

 『行動分析学入門』(杉山他、1998、産業図書, p.135)では、内在的随伴性と付加的随伴性は
  • 行動内在的強化随伴性:行動に随伴して、誰かが関わらずに自然に好子が出現したり嫌子が消失する
  • 付加的強化随伴性:行動に随伴して、意図のあるなしにかかわらず、誰かによって好子が提示されたり嫌子が除去される
というように定義されている。
 この定義を形式的に当てはめれば、ゲームの中で随伴する好子は、ゲーム制作者によって与えられる付加的好子のようにも思える。しかし、実際にはゲーム制作者はソフトを作るだけ。プレイヤーの側にくっついていて、よくできた時に褒めたり得点を与えたりするわけではない。好子が随伴するのはあくまでプレイヤーの努力に依存している。ゲーム制作者は好子を与えるのではなく、楽しみを増やすような随伴性を設計すること、好子を随伴させるレベルを最適に設定することにあるのだ。制作者は好子出現の原因を作るのではなく、出現の境界値を設定しているにすぎないと言い換えることもできるだろう。

 同じことは他のゲームやスポーツにも当てはまる。プレイヤーが勝つのは行動内在的好子。もし付加的なものがありうるとすれば、子どものためにわざと負けてやるような場合だろう。

 この例にも示されたように、「誰かが関わらずに」と「誰かによって」の区別は、誤解を生みやすい。他にも、「ネズミがレバーを押した時に餌を与えるのは付加的か?」、「瓶詰めのフタを開けて中のジャムを取り出すのは付加的か?」などといった問題がある。「付加的であるがゆえに生きがいにならない」のではなく、「達成、上達、操作、拡大、進歩などと言われるような結果が伴わない好子は生きがいになりにくい」と考えたほうがスッキリするところもある。

 ここで少々脱線するが、スポーツやゲームで勝つということは、スキナーの定義をもじれば
ゲームの楽しみとは、勝利を手にしていることではなく、それが結果としてもたらされたがゆえにプレイすることである。
と言い換えることができる。もちろん、プレイ中に、そのプレイ自体に内在する楽しみ(スポーツであれば体を動かすこと自体、思い通りにボールが飛ぶなど)も随伴することを忘れてはならない。

 もう一つ、ゲームばかりしていて働かない人は真の生きがいを感じることができるのだろうか。これは食事で言えば「主食か、おやつか」という楽しみの違いにも関係してくると思う。このあたりも、講義の中で取り上げていきたいと思う。


10月10日(火)

【思ったこと】
_01010(火)[心理]しごと、余暇、自由、生きがいの関係を考える(10):「達成」と「上達」

 白川英樹・筑波大学名誉教授がノーベル化学賞を受賞したという。先日のオリンピックの田村選手や高橋選手の金メダル獲得(9/17の日記9/24の日記参照)もそうだが、何かを達成したというニュースは人々に夢や希望を与えるものだ。先日の10/3の日記でも述べたように「達成」は当人の人生にとって大きな生きがいとなりうるものであろう。

 しかし、「達成」は本当は何を意味するのだろうか。「達成」それ自体が好子(ここでは「喜び」に置き換えても意味は通じる)の本質であるのか、それとも「達成」に付随して生じる様々な変化が好子になるのか。このあたりは慎重に考えたほうがよいと思う。

 「達成」それ自体に絶対的価値を見出す人々は、しばしば進化の話を持ち出す。つまり、大昔の人類に「目標達成型」と「無目的刹那型」の2種類のタイプがあったとする。絶え間なく変化する世界にあって、おそらく「目標達成型」のほうが生き残り子孫を増やす確率が高い。それゆえ、今の人類にとって「達成」はそれ自体、生得的な好子になっている(=「達成」が生得性好子であるような人類が生き残った)という考え方である。しかし、現代の人間すべてが「目標達成型」タイプでないことを考えるとこの説明はあまり説得力を持たない。そもそもそういう「行動→強化」パターンが遺伝子に組み込まれるという保障はどこにない。子どもの時から小さな目標を立て、それを達成するという喜びを何度も体験してきた人だけにとって、達成は強力な習得性好子(すなわち価値そのもの)として意味を持ってくるように思う。

 「達成」というのは、達成した瞬間よりも、達成目標に至るプロセスの諸行動を強化するところに意味がある。重たい石を河原から土手に運ぶ場合を考えてみよう。
  1. 石を100m運ぶたびに100円の報酬を受け取るというアルバイトを考える。運ばれた石はトラックに積んでどこかへ運び去られる。
  2. ボランティアで決壊した土手の修復のために石を運ぶ。
上記1.の場合は、完全な付加的強化随伴性、2.のほうは、石を運ぶたびに土手の修復が少しずつ進むという点で、行動内在的好子により強化される。個々の行動は単純肉体労働であるが、飽和化が起こることはない。

 ところで、ひとくちに「達成」といっても次の2種類のタイプがあるようだ。
  1. 達成それ自体に最大の意味があるもの。建築物の完成、農業における収穫、科学研究における発見など。
  2. 「外的な事物の完成」とは別に、その人自身のスキルを上達させ、行動リパートリーを拡大させる効果。
 今回の白川名誉教授の受賞は、白川氏の過去の研究業績に与えられたものであり、これにって白川氏ご自身のスキルが上達するわけではないので、おそらく上記の1.のタイプに相当すると思われる。オリンピックの金メダルの場合は、その選手がそれをもって第一線から引退するのであれば上記の1.であるが、その練習の成果を活かしてさらに連続受賞や世界記録達成を目指すというのであれば2.に相当するものと言えよう。

 車の免許取得、入試合格、各種の資格取得、学位取得などはいずれも2.のタイプの達成である。車の免許証は、額縁に入れて部屋の中に飾ったり、あるいは周囲から賞賛されるために取得するものではない。それを取得することで、一般道路を自由に通行することができ、通勤や運搬の利便性が増したり、ドライブを楽しむなど、今までに無かった多様な好子が随伴するようになる。入試の場合も、その学校に入学することで新たな勉学の機会が与えられることによって新たな好子が随伴するようになるのだ。

 こうして考えてみると、少なくとも2.のタイプでは、見かけ上は「達成」が好子になっているものの、実際には、「上達」や「行動リパートリー拡大」という形で総称される新たな変化こそがホンモノの好子を与えていることになる。抽象的に「達成」の価値だけを強調する「生きがい論」を物足りなく感じるのはこのあたりに原因があるのではないかと思う。

 10/3の日記でも例として取り上げたように、TVゲーム、特にRPG型のゲームは、この「達成」と「上達」を最も合理的に配置した人工的随伴性空間であると言ってもよいかと思う。そこでは「上達」や「行動リパートリー拡大」は、経験値増加、使える技の拡大・強力化、より強力な武具や防具の入手として具現される。多くの人々がこれに熱中する理由はここにある。

 では、TVゲームばかりに熱中している人は最高の生きがいを得られるのか、もしそうでないとすれば何が不足しているのか、また「達成」や「上達」を最高の価値とする「生きがい論」はそれで充分と言えるのだろうか、次回以降はこのあたりを考えてみたいと思う。




この連載は第二集に続きます。