じぶん更新日記1997年5月6日開設Y.Hasegawa |
【思ったこと】 _01011(水)[心理]しごと、余暇、自由、生きがいの関係を考える(11):TVゲームは何故最高の生きがいとならないか 本日は、昨日の日記で TVゲーム、特にRPG型のゲームは、この「達成」と「上達」を最も合理的に配置した人工的随伴性空間であると言ってもよいかと思う。そこでは「上達」や「行動リパートリー拡大」は、経験値増加、使える技の拡大・強力化、より強力な武具や防具の入手として具現される。多くの人々がこれに熱中する理由はここにある。と述べた点について考えてみたいと思う。 「TVゲームは何故最高の生きがいにならないか」については、それが仮想空間での「達成」にすぎないからという理由がしばしば持ち出されるが、私はこれは当たっていないと思う。なぜなら、学問の世界、例えば数学の定理を証明するというのも仮想空間における達成であると言えないこともないし、小説や芸術の世界も現実に根を下ろしている必要は必ずしもない。天国や地獄も、それを信じない人から見えれば仮想の世界である。 もちろん、我々は現実に空気を吸い、物を食べたり飲んだりして生きているわけだから、100%仮想空間に埋没するわけにはいかないが、「仮想であるから」をもって「TVゲームは最高の生きがいにはならない」の理由とするには無理があるように思う。 では、それに代わる理由は何か。私は、昨日述べた「達成」の2番目のタイプが関係しているように思う。2番目のタイプとは、見かけ上は「達成」が好子になっているものの、実際には、「上達」や「行動リパートリー拡大」という形で総称される新たな変化こそがホンモノの好子を与えているケースのこと。確かに、RPG型のゲームでは、「上達」や「行動リパートリー拡大」が合理的に配置されてはいるが、それはそのゲームの中だけでしか通用しない。いっぽう、車の免許取得の場合は、利便性やドライブなど、運転技術の世界以外に行動リパートリーが拡大される。いっけん閉じた空間のように見える数学の世界も、別の理論との整合性、思いがけない一般化、物理世界への応用など、無限に広がる可能性を秘めていると言える。「ゲームの中だけでしか通用しない」という有限性は、飽和化(=飽き)の一因となる。 あらかじめ敷かれたレールの上でしか動けないという点も、TVゲームの「有限性」を示している。多少の裏技、バグ技はあるものの、基本的にはゲーム制作者が設定したレールの上を進まなければ最終ゴールに到達することができない(その点、「ロマンシング・サガ」のバリエーションはなかなか面白かった)。これは「能動的な行動が結果的に強化される」機会を奪うので、義務感の原因となる。現実世界における「達成」の場合もそうだが、主体性の無い受験勉強が「やりがい」をもたらさないのは同じ理由によるものだ。 あらかじめ敷かれたレールの上でしか動けないということは、要するに、自分がプレイしても、別の人がプレイしても、達成される内容は同じという意味にもなる。自分は代替可能な一プレイヤーにすぎないということも、「やりがい」に限界を与える一因になっている。これは産業労働における生きがいの喪失にも通じる側面だ。 ルールが有限であっても、達成のルートにおいて「上達」や「行動リパートリー拡大」に無限の可能性がある場合は、「能動的な行動が結果的に強化される」機会は保障され、やりがい、生きがいが出てくる。古典的なゲームでありながら生涯の趣味として多くの人に楽しまれている囲碁や将棋がそのよい例と言えるだろう。 |
【思ったこと】 _01028(土)[心理]しごと、余暇、自由、生きがいの関係を考える(12):生きがいを阻害する5つの文化的慣行(その1) 12月中旬にタイペイで行われる国際会議での発表原稿を準備中。この会議は
ネタ本となるSkinner(1986)の批判は、前年にアメリカ心理学で行われた講演をまとめたものであり、 Skinner, B. F. (1986). What is wrong with daily life in the western world? The American Psychologist, MAY. またこの講演録は Skinner, B. F. (1987). Upon further reflection. NJ: Prentice-Hall. という本に収納され、その日本語訳が スキナー(著), 岩本隆茂・佐藤香・長野幸治(監訳) (1996). 人間と社会の省察. 勁草書房 として単行本化されている。 この講演でスキナーは、まず、 Overpopulation, the impoverishment and pollution of the environment, and even the possibility of a nuclear war are often dismissed as matters of a fairly distant future.として、現状(1985年当時)を肯定的にとらえつつ、西欧の先進諸国に生きる人々が In spite of their privileges, many are bored, listless, or depressed. They are not enjoying their lives. They do not like what they are doing; they are not doing what they like to do. In a word, they are unhappy.という状態にあること、それらは人類滅亡を招くほどの深刻な問題ではないにせよ、 Something like the current life style in the West is what most of the world look forward to as something to be enjoyed when they have solved the other problems.という形で、今後、発展途上国でも同じように起こりうる問題であることを示唆している。では、現代の人々をunhappyにしている慣行とは何なのか。要約すれば以下のようになる。スキナーはこれらを5つにまとめたが、基本概念に分けて検討を加えるならば、全体として10余りに再分類することも可能である。次回以降でこのあたりを論じてみたいと思う。(英文は長谷川による要約。【 】部分は長谷川の解釈。)
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【思ったこと】 _01103(金)[心理]しごと、余暇、自由、生きがいの関係を考える(13):生きがいを阻害する5つの文化的慣行(その2)いまどきの「自己疎外」 11/3の朝日新聞文化欄「思潮21 『自己疎外』再考」で岩井克人・東大教授が、「自己疎外」という言葉を一度も耳にしたことが無い学生(東大生?)がいると書いておられた。岩井氏が指摘しているように、「自己疎外」は1960年代から70年代にかけて一世を風靡した言葉であり、1971年に大学に入学した私も、高校時代に何度もこれを耳にしたことがあった。 「自己疎外」はもともとヘーゲルの用語であり、『広辞苑』の第二版の記述を岩井氏から孫引きさせていただくならば、「理念が自己を否定して、自己にとってよそよそしい他者となること。外化ともいう。」という意味。しかし、じっさいにはヘーゲルではなく、マルクスによる再定義「資本主義の下で人間が自己の本質を失って非人問的状態におかれていること」という意味で使われることのほうが多い。 岩井氏は同じ記事の中で「七〇年代の前半にベストセラーとなったある経済学の入門書」の中から次のような記述を引用している。これは資本主義における「自己疎外」、あるいは労働と生きがいとの関係を考える上で重要な資料になるので、これも孫引きさせていただこう。
ここでいったん岩井氏の議論から離れて、
Skinner, B. F. (1986). What is wrong with daily life in the western world? The American Psychologist, MAY. というスキナーの文献の中には、マルクスの「疎外」に関する次のような記述が含まれている。 I begin with an old chestnut, the alienation of the worker from the product of his work. That is Karl Marx, of course, and it is often assumed that Marx meant the deprivation of the worker of the product of his work. A better word is estrangement. The behavior of the industrial worker is separated from the kind of immediate consequences that shapes and maintains the behavior of, say, a craftsman. Alienation can scarcely be exploitation because entrepreneurs are also estranged from the consequences of what they do, and so are the workers in socialist states.ここで重要な点は、スキナーは「疎外」の根本を、「働くこと」と「物を作り上げるプロセス、およびその完成に伴って随伴する結果」との分離にあると考えたことである。 旧ソ連型の社会主義では、生産手段については国有化(実際には官僚の私物化)をめざしたものの、
同じような傾向は資本主義社会における労働組合運動にも見られた。多くの組合は、もっぱら基本給の引き上げ(=付加的随伴性の操作)あるいは労働時間短縮をスローガンに掲げ、働くことがもたらす行動内在的な結果を取り戻すことに目を向けなかった。それゆえ、給与水準が一定以上に上がると、組合運動は衰退し、組合のサークル活動などよりは個人の趣味や家庭サービスを重視する人々が多数を占めるようになってきたのである。このほか、自分の労働力が代替可能な部品にすぎないという点も改善されなかった(内山節の『自由論』に関する行動分析学会ニューズレター掲載記事を参照)。 元の記事に戻るが、岩井氏は「自己疎外」を“他者による「批判」の別名”であると捉え、 資本主義社会とは、まさにそれが自己疎外的であるということによって、みずから独善におちいる危険を最小限にとどめておく批判の可能性を内在化させている社会という視点から議論を展開しようとしておられるよう。この連載はまだ続くということなので大いに期待したいところだが、労働のもつ行動内在的好子、あるいはそれを補完するための価値づくり(多様な習得性好子の形成と配置)にふれることなしには「自己疎外」は本質的には克服されないであろうと私は思っている。 |
【思ったこと】 _01105(日)[心理]しごと、余暇、自由、生きがいの関係を考える(14):価値観と行動 別の大学院に通う方からEメイルで価値観と行動に関して次のような質問をいただいた。ちょうど関連する資料を集めている最中でもあるので、これを機会に私の考えを述べてみることにしたい。 ご本人から了承をいただいたので、初めにその質問を引用させていただく。なお、原文は1つの段落から構成されていたが、引用の必要上、文章をいくつかに分け、長谷川のほうで番号をふらせてもらった。 【価値観について勉強しているうちに】まず、結論から先に言うが、私は人間の行動を「価値観」という言葉で説明しようとすること自体に無理があると思う。「価値観」という言葉が使えるのはその多様性を強調する場合だけだろう。 『行動分析学の基礎』(Malott et al., 2000, ISBN 0-13-083706-7]の著者のマロットは、「価値」を次のように定義している。 Value価値:Learned and unlearned reinforcers and aversive conditions. 習得性好子または習得性嫌子。この定義はあまりにもあっけなく、読む人によっては「価値を侮辱するもの」、「価値概念の価値を低下させるもの」と受け止めかねない恐れがある。しかしじつはこの定義は、世の中の何に価値があるのかには一言も触れていない。あくまで、世の中に存在する価値は、一般の習得性好子や習得性嫌子と同じプロセスにより、経験を通じて形成される。ということを意味している。つまり、価値の中身を規定しているのではなく、価値の作られ方を述べているにすぎないのだ。このほか、価値はまたただ所有するのではなく、行動と一体となって初めて高められるという点にも注意する必要がある。 上記のような形で「価値」が定義され、ある個人の習得性好子のリストや優先順位が示されたとしても、どういう行動が強化されているのか、という肝心な知識がなければ行動を説明するわけにはいかない。例えばモネの絵が習得性好子になっていたとしても、同じ行動をとるとは限らない。モネの展覧会に行く行動が強化されるかもしれないし、モネの絵はがきを集める行動が強化されるかもしれない。価値観とか何とか言ったところで、結局は、どういう行動がどういう好子によって強化されているのかを問題にしなければ、その人間を理解したことにはならないのである。 さて、もとの質問の3.と4.で引用されている実験だが、原典が分からないので何とも言えないが、もしその実験者が「リサイクルをすることがいいことだという教示を与え」ただけで被験者の「価値観」を変える操作を行ったと考えているなら、あまりにも浅はかすぎると言わざるをえない。仮に、その教示を与えられた被験者が「リサイクルは良いことだ」という質問に肯定的な回答をするようになったとしても、それだけで行動が変わったなどということはありえない。しいて言えば、「リサイクルは良いことですかという質問にそうだと答える」という言語行動程度は変わったかもしれないが.....。本当に行動を変えようとするならば、まさにリサイクル行動そのものを強化するほかはない。その実験では行動を何も強化していないのだから、変わらないのは当たり前。驚くには当たらない。(というか、この実験は、「教示だけで強化しなければ行動は変わらない」という証拠を示したものと言えるかもしれない)。 次に「『リサイクル行動を実際に行動として観察されなかった場合、その人はエコロジストとは言えない』のでしょうか? 」というご質問だが、それは何をもってエコロジストと呼ぶのかという定義によってどうにでも変わると言わざるを得ない。資源回収活動を実際に行っている人を呼ぶのか、リサイクル団体に寄付をするだけでもよいのか、「リサイクルは大切だと思うか」という質問にYESと答える人も含めるのか、さまざまであろう。もっとも、ホンマのところは「リサイクルは環境破壊の免罪符にはならない」という発想こそが求められているのだけれど.....(11/2の日記参照)。 6.の「行動に観察されなくても認知面で変化があるという見方もありますが、長谷川先生はどのようにお考えですか?」については、上にも述べたように、リサイクル行動自体は強化されなくても、「リサイクルは良いことだ」という発言する行動、アンケートでそのように回答する行動には変化があるだろう。そういう意味では認知面には変化があると言ってもよいだろう。しかし「認知を変えれば何かが変化するだろう」などと呑気なことを言っている場合ではない。「認知を変える」と称される働きかけが、
7.の「価値観と行動を一致させるにはどうしたらよいのでしょうか。 」については、
最後の「もっと根本的な問題として、価値観というものは測れるのでしょうか。」については、繰り返しになるが、
「認知の変化」が行動を変えるのか、それとも行動が変わる中で認知が変わっていくのかという問題は、もはや人工環境の中の決定実験で争われるような議論ではない。実践場面の中で、結果的に有効なものだけが淘汰されていくだけのことだ。11/4の朝日新聞で取り上げられていた「エコマネー」などは、こうした問題を考える上で良きヒントを与えてくれるものであると思うが、時間が無くなったので次回に取り上げることとしたい。 |
【思ったこと】 _10126(金)[心理]しごと、余暇、自由、生きがいの関係を考える(15)経営難にあえぐ第三セクター方式のテーマパーク/「レスポンデント型」より「オペラント型」の遊具を 1/26の朝日新聞で、経営難にあえぐ第三セクター方式のテーマパークの話題が取り上げられていた。倉敷チボリ公園の場合、1999年度の赤字が11億5200万円となり長期収支計画見込みの赤字額7億9200万円を大きく超え、累積赤字は26億円以上になるとか。これまで年間200万人規模を維持していた入場者数も今年度は1/4現在で170万人となっており目標達成が危うい。それに加えて入園者一人あたりの出費額が、5306円の期待額に対して1999年度は約4500円。敷地の所有者のクラボウには県が毎月約5000万円で借り、約1000万円でチボリに転貸する形をとっているというが、この差額分の負担はわれわれ岡山県民にも跳ね返ってくる。 記事には前経済企画庁長官の堺屋太一さんの「『非日常空間』売りに全国から集客めざせ」というコメントが載っていたが、テーマパーク経営維持のカギと言われるリピーター確保と両立できるかはやや疑問。リピーターとして訪れるということは非日常空間が日常空間化することを意味するからだ。 日本国内のテーマパークでリピーターが多いところと言えばTDLぐらいのものだろうか。TDLの場合はいつ訪れても待たされてばかりで全部の遊具を楽しむことは物理的に不可能。このことが「次回には○○に乗ってみたい」というリピーターを呼び込む一因になっているようにも思える。 それ以外のテーマパークの場合、単なる外国風景の模写では、新鮮味が失せるとともに訪れる気が無くなるのは当然のことだ。リピーターが呼び込むためには、新鮮味以外で勝負しなければならない。例えば、日本の古くからの街並みには、それなりの伝統や文化があり、生活感が漂う。何度も訪れたいと思うのは、新鮮味ではなく懐かしさで強化されるからである。その他、植物園には季節感、動物園は飼育されている個体とのふれあいといったように、我々の日常生活と共通した何らかの根っこがある。 ところで記事では、チボリが絶叫マシンを設置していないことが経営難の一因になっているというようなコメントもあった。しかし、そもそも絶叫型マシンというのは、強度の刺激に対する受身的な反応(=絶叫、安堵など)を引き出すタイプの遊具にすぎない。行動分析の分類に従えば「レスポンデント型の快感をもたらす遊具」と言ってよいかと思う。都会の騒音も馴れてしまえば気にならなくなるのと同様、レスポンデント的な反応は馴化がおこりやすい。手を変え品を変えてもいずれは飽きられてしまうだろう。 ではどうすればよいのか。リピーターを呼び込むのであれば、やはり「そこで遊ぶ」という能動的な行動を強化する必要が出てくる。行動分析の分類に従えば、それはオペラント型遊具と呼ぶことができるだろう。具体的には入園者が能動的に反応し、その量と質に応じて結果が変わってくるようなタイプの遊具。ちなみに既存のオペラント型の遊具の代表と言えばパチンコ、各種ビデオゲーム、自分で運転する乗り物、乗馬、フィールドアスレチックなど。ボーリング場、バッティングセンター、ミニゴルフ場なども同様だ。これらを、テーマパーク独特の非日常型の環境刺激や文脈と組み合わせて導入すれば、刺激の物珍しさではなく行動の「物珍しさ」が強化されることになるだろう。 繰り返し言うが、刺激の非日常性などはすぐに飽きられる。これに対して、行動側、それも受身ではなくて能動的な行動側の中には常に新鮮味が潜んでいる。その新鮮味は強化されることによってのみ引き出されるのだ。能動的な行動自体に飽きてしまったり、何一つ強化されなくなってしまったら、もはや生きる意味が無くなってしまうだろう。 |
【思ったこと】 _10302(金)[心理]しごと、余暇、自由、生きがいの関係を考える(16)何もすることのない苦痛 3/3朝6時台のNHKニュースによれば、三宅島からの避難生活を続けている住民の間で今年に入ってから不眠やからだの不調を訴える人が増えているという。村山診療所の山内医師のもとには都営アパートに仮住まいしている住民が次々と訪れる。診療所では睡眠剤や精神安定剤などを処方しているが、いっこうに改善されない。心のケアの大切さが強調されていた。 もっとも、ここでいう「心のケア」とは何だろうか。カウンセラーが相談に応じれば解決する問題だろうか。取材の中でも紹介されていたが、最大の原因の1つは、何もすることのない苦痛にある。島で一日中畑仕事をしていた女性は、避難生活を始めてからこれといってすることが無くなってしまった。この日記で何度も引用しているスキナーの生きがいの権利: Happiness does not lie in the possession of positive reinforcers; it lies in behaving because positive reinforcers have then followed. [行動分析学研究、1990, 5, p.96.]という、人間において最も尊重されるべき権利が奪われていることがストレスの1つとなっているのである。 昨年の紀要でも論じた: 「環境に能動的に働きかけ、結果として好子を受け取る」という幸福観、生きがい観は、定年退職後の健常なお年寄りの場合にも当然あてはまるものだ。長谷川(1999)が指摘したように、単なる生活資金の支給や医療費の無料化では生きがいは獲得できない。少なくとも健康なお年寄りの場合は、年金の額を倍増させるよりは、行動内在的(※脚注2)な結果が確実に随伴するような労働機会を保障することのほうが大切であると言える。という視点は避難所生活にも当然あてはまるものだ。物資の支給や住宅の確保ばかりでは行政の対応は十分とは言えない。若い人には労働の場を、お年寄りにあっても、ちょっとした農園(山内医師は「三宅島農園」を作ったらよいと言っておられた)を確保するといった対策を早急にとってもらいたいものだと思う。 |
【思ったこと】 _10523(水)[心理]しごと、余暇、自由、生きがいの関係を考える(17) 多品種少量生産・多能工化による働きがいの復権 NHKスペシャル「常識の壁を打ち破れ〜脱・大量生産の工場改革〜」をビデオで見た。この番組は5/12に放送されたものであったが、ちょうど京都〜東京移動中であったためあらかじめ録画予約を入れておいたものである。 舞台となったのは、山陰地方の電機製品の生産工場。この工場では、携帯電話機やコピー機など大量生産していたが、人件費の安いマレーシアや中国に生産拠点を奪われつつあり、地元では深刻な雇用不安をもたらしている。さらに数ヶ月単位の目まぐるしいモデルチェンジに生産ラインが対応しきれないために大量の作りすぎ品が発生する。製造業の倒産件数は昨年1年間に3000件を超えるという悪条件のもとで根本的な改革が求められていた。 会社は、「工場再建屋」の山田日登志氏(61、PEC産業教育センター所長)に工場改革の全権を託す。山田氏はラインのあちこちに仕掛かり品(ラインの途中で発生する作りかけ品)が大量にたまっていることを指摘し、2つ以上の仕事をこなす多能工の養成、さらには組み立てから包装までの全工程を一人で済ませる「一人屋台生産方式」への移行を推進させた。 工場改革の途中では、複雑な工程に習熟できない工員も現れ、納期に間に合わない恐れが出てきた。信頼を失うことは工場の存亡に関わるゆゆしき事態であった。そのため、一時、現場責任者の判断で分業ラインを復活させる場面もあった。しかし、モデルケースとして抜擢された一人の熟練工が、わずか5日間の訓練で、分業生産に要する時間よりも「一人屋台生産方式」のほうが効率的であることを実証し、ようやく関係者の理解を得ることができた。 消費者がみな同じ物を求めていた時代には、分業による大量生産は大幅なコストダウンを実現させた。その後、海外で安い人件費を活かした製品が出回るようになった時には、機械化による大量生産に切り替えられた。 ところが、1990年代になって消費者がニーズが多様化するにつれて、次々とモデルチェンジをしていく必要が出てきた。モデルチェンジを実現するにはラインの組み替えが必要であり、機械化が進んでいるほど、過度の設備投資と大量の売れ残りが発生する恐れがあった。 いっぽう、上に述べたような多能工化や「一人屋台生産方式」が導入されれば、ラインの途中で「仕掛かり品」がふくれあがる恐れも無くなる。さらに
番組のなかでは、山田氏のアドバイスで見事に変身した茨城県の別企業の工場も紹介されていた。そこでは、多能工化の導入により複写機の生産台数が一人1日あたり5.9台から16.7台に増加するなど客観的な成果が報告されていた。 この別企業の工場では
この番組を録画予約しておいたのは、予告編でベルトコンベアーが撤去される映像が流された時、スキナーや内山節氏によって論じられた「企業労働はなぜ最高の働きがいの場とならないのか」という思想に通じるものを感じたからであった。今回断行された改革は
ここで、スキナーや内山氏が指摘した内容に私なりの解釈を入れて再掲しておこう。(引用は、[1]、[2]、あるいは行動分析学会・ニューズレター2000年春号)
私たちは世界のひとびとになくてはならない存在でありたい という経営理念を唱和していたのである。なるほど、と思った。 ところで、山田日登志氏は、「多能工化」や「一人屋台生産方式」の発想をどこから学んだのだろうか。この点について、番組では、山田氏が元トヨタ自動車・副社長の故・大野耐一氏を恩師と仰いでおられると紹介していた。かつてトヨタ自動車では、トラックの大量在庫をかかえて倒産寸前の危機に陥ったことがあり、その経験から、「売れる分しか作らない」という「トヨタ生産方式」を確立した。その立て役者が大野耐一氏であったという。大野氏の発想を他企業まで広げていったのが山田氏の功績である。努力と経験的に積み重ねられた中で生まれた考え方が、結果的にスキナーや内山節氏と同じ結論に至ったという点はまことに興味深い。 ジャンボ機やスペースシャトルが一人の職人で作れないことから分かるように、高度の技術と複雑な生産工程が必要とされる現代の製造産業において、すべての製品が「一人屋台」だけから生まれるとは考えられないし、未熟な職人によって欠陥品が作り出され大事故に繋がる恐れも無いとは言えない。しかし、給与のような付加的好子の増額や、労働時間を短縮するといった「労働は不自由」という発想だけでは、企業労働の場において働きがいを実現することには限界がある。部分的な「多能工化」やチームワークを重視した生産方式などを含めて、今後ますます改革が求められていることになるものと思う。 |