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医療・看護と福祉のための質的研究セミナー


2006年1月15日(日)
主催 日本質的心理学会研究交流委員会
場所:大阪府立大中百舌鳥キャンパス

目次
  1. (1)参加の目的
  2. (2)研究とは何か
  3. (3)量vs質というより...
  4. (4)方法論と読むことの大切さ
  5. (5)書くことのコツ
  6. (6)質的分析のコツ
  7. (7)観察法の重要性
  8. (8)研究とは何か、理解とは何か
  9. (9)自分への誇りと文化
  10. (10)独立型社会福祉士の活動
  11. (11)まとめ、ライフストーリー研究の重要性、ナラティブセラピー


【思ったこと】
_60115(日)[心理]医療・看護と福祉のための質的研究セミナー(1)参加の目的

 1月15日午後に大阪府立大中百舌鳥キャンパスで行われた

医療・看護と福祉のための質的研究セミナー「あなたにもできる質的研究:着想から投稿までのノウハウを教えます」

というセミナーに出席した。

 大阪府立大を訪れるのは今回が初めて。11時15分発の新幹線で岡山から新大阪に向かい、JR在来線の快速や南海電車を乗り継いで会場に向かったが、到着したのは13時15分で丸々2時間かかってしまった。後で確認したが、南海電車の白鷺駅で降りるよりも、地下鉄御堂筋線で中百舌鳥駅に直行するほうがよほど早かったようだ。次回行く時には地下鉄を利用することにしよう。

 このセミナーに出席しようと思った理由は3つほどあった。

 1つは、私のところでも毎年のように「質的方法」で卒論を書く学生が居るのだが、査読をしていて、「これはスゴイ!」と唸らせるようなものがなかなか見当たらない。指導に役立つようなヒントは何かないものだろうか、これを教えてもらうのだ第一の目的であった。

 次回以降に詳しく述べるが、この点では、今回の田垣正晋氏の基調講演はたいへんタメになった。ちなみに、田垣氏のレジュメによれば、「量的研究は、質が悪くても、なにかをしたような体裁を保つことはできる。しかし、質の悪い研究は,....」となっていて、「...,」のところは、私の聞き間違いでなければ、どうやら「中学や高校の文化祭の発表のようなもの」が入るようだ。

 もちろん、中学・高校の生徒たちも、総合学習や課外学習のテーマに熱心に取り組んでいる。しかしいくら熱意があっても、依って立つ方法(データ収集法、分析法)がしっかりしていなければ、研究と呼べるだけの成果を挙げることが難しい。いっぽう、量的研究の場合は、たとえそれが、実験のための実験としか呼べないような閉じたモデルに関わる変数いじくりであっても、統計解析法を使うことで何となく「研究」らしく見えてくる。本当はそれでは困るのだけれども、とにかく「質の悪い」質的研究ほど扱いに困るものはない。

 第二の目的は、6月に私のところで開催予定の「人間・植物関係学会2006年大会」で、できれば、質的研究の専門家をお招きして、園芸療法の効果検証をめぐる新たな視点を提示してもらいたいと考えていたためである。会場ではそのような交渉には至らなかったが、メイルで依頼を出すきっかけづくりにはなったかと思っている。

 第三の目的は、「面接調査法」に関して私がいだいている疑問を解決しようと思ったことである。こちらの論文でもふれたことだが、質的研究はどうも、インタビューに頼りすぎているのではないかなあと、近頃ますます思いつつある。この点は、シンポの終わりにも、姉歯・元建築士の事例を出して質問させていただいたところであった。

 姉歯氏がなぜ耐震強度偽装を始めたのか、ということは果たして、姉歯氏へのインタビューだけで解明できるだろうか。彼自身のライフストーリーとして意味づけするだけならそれも可能かもしれないが、今後の再発防止策を検討しようと思った時には、インタビュー内容について、本人の行動や彼をとりまく行動環境についてちゃんとした裏付けをとる必要があるだろう。福祉・医療場面でも同様であって、インタビュー結果を分類・関連づけしたり、そこから仮説生成するだけで福祉行政に有効な提言ができるものだろうか。このあたりの疑問を解決できればと思った次第である。



【思ったこと】
_60116(月)[心理]医療・看護と福祉のための質的研究セミナー(2)研究とは何か


 セミナーではまず、大阪府立大の田垣氏が

●初学者はどこで苦労するのか:障害者分野における質的研究の指導経験から

という基調講演をされた。

 講演の最初のほうで田垣氏は
  • 基礎研究:当該テーマの枠組みを作る研究。「実践」の通底になるような思考を人々に提供することを目的にする。
  • 「実践」研究:当該「実践」だけの改善をめざすのか、加えて、何らかの転用可能な知見をうみだすことをめざすのか。
という形で、基礎研究と実践研究、さらに実践研究の中にもいくつかのスタイルがあることを指摘された。また、「理論」とは何かについて、
  • 理論とは「法則」のこと。「AならばBである」という命題の集合。
  • すべての人間にぴったりあう理論はありえない。むしろ、ある領域内での理論を考えるべき。
  • 広い範囲を扱えば扱うほど、「理論」は抽象的になる。
というような位置づけをされた【以上、配布資料からの抜粋引用】。

 これらの定義と位置づけにはほぼ同意できる。私自身の紀要論文: をご高覧いただければ分かるように、かなり似通った視点がそこに記されているはずだ。




 この視点は、「基礎と応用」、「基礎と実践」の関係を考える上で重要である。いわゆる「基礎心理学」を専門とする研究者の中には、基礎心理学とは、誰にでもあてはまる普遍的法則を発見する学問である、発見された法則はいずれ応用に役立てることができるというように考えている方がおられる。しかし、これまでの基礎心理学の研究の流れを調べてみれば分かるように、過去数十年の研究の中で、何か重大な「普遍的法則」が「発見」され、それが応用されて、人類の福祉に貢献したなどという話は、はっきり言ってあまり聞かない。基礎研究が貢献したのは、あくまで、テーマの枠組み作りを洗練させたという点である。

 裏を返せば、長大な時間をかけて基礎研究に取り組んでも、応用に役立つような法則が次々と発見されていくというような可能性は殆ど期待できない。「実験」というのは、何かを「実証」するのではなく、「こういうことをすれば、こういう結果が起こりますよ」という事例を示し、未開拓な領域でも同じ分析の枠組みや原理が適用できるかもしれないという可能性を実践者に期待させ、確信を与える働きをするものだと考えたほうが生産的である。

 それと「法則」というのはかならずしも適用範囲が広い(=より「普遍的」)ほうがよいというものではない。万能薬よりも特効薬のほうが重んじられるように、あと特定の条件のもとでしかあてはまらなくても、より強力であるならそのほうがよい。肝心なことは、どういう条件、どういう範囲で効き目があるのかを確定するための「生起条件探索型」の研究である。

 例えば、ハトを被験体とした強化の実験は、さまざまな法則を発見した。しかし、そこで大切なことは、量的な予測を可能にするような関数関係を精緻化することでは必ずしもない。仮説検証型の研究も殆ど意味がない。むしろ、そういう実験を通じて、「強化の原理の枠組みで人間行動を分析すれば同じように行動を変えることができる」という可能性を示した点が重要なのであって、そこから先は、「強化の原理をどのように働かせていくか」という実践的な課題に進むことのほうが生産的である。

 以前にも指摘したことがあるが、もともとスキナーの著作というのは、大部分が、「当該テーマの枠組みを作り、実践の通底になるような思考を人々に提供することを目的に」執筆されたものであると言ってもよい。「実験的根拠」の積み重ねで展開されたものでは無いという点に留意すべきだろう。マロットの入門書も同様である。実験研究を引用してはいるものの、それらはどちらかと言えば「実際にこういうことが確認されている」という一例としてエピソード化されており、大部分は、テーマの枠組み作りに重点が置かれているように思う。


【思ったこと】
_60117(火)[心理]医療・看護と福祉のための質的研究セミナー(3)量vs質というより...


 さて、一昨日の感想1回目のところで、「量的研究は、質が悪くても、なにかをしたような体裁を保つことはできる。しかし、質の悪い研究は,....」と指摘されたことを引用したが、表面的にはこれは、「質か量か」、つまり、データを量的に扱うのか質的に扱うのかという議論であるように受け取られがちである。しかし、私の紀要論文:

スキナー以後の行動分析学(12) 行動分析と質的研究

でも述べたように、議論の本質はもう少し別のところにある。早い話、「質が良い」「質が悪い」、あるいは「生活の質の向上」などと語ること自体、すでに量の概念が入ってしまっているのである。

 今回の初学者向けのノウハウをご伝授いただくにあたっても、我々が、研究というものを進めるにあたって、何を前提にしているのかということに目を向ける必要がある。例えば、社会構成主義者が言うように、我々はしばしば

まずは世界が存在していて、しかるのちに、それを人間が知覚する

ということを当たり前の前提として、科学的心理学の研究を進めるが、本当にそれでよいのかという議論がある(こちらにも引用したように、他にもいろいろな前提がある。議論を交通整理するために意図的に設定した前提もあれば、研究者が知らないうちに使っている暗黙の前提もある。そういう前提を置くことの是非を疑いつつ
  • 実験的方法はどういう場面で有効なのか
  • 言葉を拠り所にした面接調査法や質問紙調査法で何が分かるのか、何は分からないのか
  • 行動観察において、何をどういう基準でカテゴライズするのか。
  • 行動をとりまく環境はどのように把握していけばよいのか
といった問題を、研究に課せられた要請(ニーズ)に合わせて考えていかなければならない。




 さて、田垣氏は、基調講演の最初のところで

研究する人の最低限の役割:現象を現とによって「論理的に(logical)」に記述すること

と指摘された。この「論理的」というのは「理論的」の誤植ではない。要するに筋道を立てて議論することであるという。このことは大切であると思うが、では論理的とは何か、ということになると結構難しい。けっきょく、上に挙げたような前提に関わってくるのではないかと思う。

 例えば、純粋に演繹的な論理であるなら、前提さえ確認すればそこから機械的に定理が導かれる(数学の証明と同じ)。いっぽう、帰納的な推論であるなら、ある部分は確率的な議論にならざるをえない。

 田垣氏はまた、「Empiricalな研究とは」ということについても説明された。「Empirical」は「実証的」ではなくむしろ「データに基づいた」と訳すほうが適切であるそうだ。とはいえ、「データに基づく」というのも、それを、仮説の検証に使うのか、仮説と矛盾しないデータの例示として扱うのかでは議論の展開が変わってくる。


【思ったこと】
_60118(水)[心理]医療・看護と福祉のための質的研究セミナー(4)方法論と読むことの大切さ


 今回の基調講演の中で、田垣氏は、卒論や修論に取り組む学生・院生、あるいは福祉関係の職員、行政担当者などにとって有益なノウハウをいくつか提示された。順不同で感想を述べさせていただく。

 まずは、「内容と方法論の両方が大切」ということ。とくに行政担当者の場合、当該分野の内容には熟知していても方法論に疎いことによって、調査や分析が不適切になることが多いという。これは、あらゆる分野についても言えることであり、この日記でも時たまツッコミを入れているように、「学習意欲の調査」、「ボランティアについての意識調査」、「環境問題についての調査」などでもずいぶんいい加減のものが多く、「データの活用範囲や転用可能性がいいかげんになり、場合によっては調査をしないほうがよいような研究になってしまう」(レジュメより引用)という批判を浴びせらそうなものが氾濫しているように思う。この原因としては、
  • テレビや新聞報道では、方法論は大雑把でも、テーマや結論の一部(=結論全体ではなく、世間を驚かせるような結論の断片)だけが大見出しで取り上げられることが多い。
  • 予算がつくと、とにかく何か調査しなければいけない。
  • すでに分かっていることでも、調査結果を揃えておけば、「客観性レトリック」により相手を説得しやすい。
といったことが考えられるのではないかと私自身は思っている。

 次に、「読むこと」に関して
  • 名著と言われる単著をみつける。←編著ではどうしても内容の一貫性にかける。
  • 方法論のテキストは特に1章が難しい。
  • 本の全体より、各章や論文を読む。
というようなことを指摘された。これはなかなか的を射た御指摘であると思ったが、「名著と言われる単著」といっても、現実には、原書で読むのは結構エネルギーがいるし、自分一人では誤訳に気づかないことも多い。いっぽう翻訳書刊行を待っていたのでは最新の知見は得られないし、翻訳がヘタであれば何が書いてあるか分からない。けっきょくこのあたりは、大学の専門科目の講読できっちり習得するほかはないのだが、そうなると指導教員の関心分野に内容が偏ってしまう。そう言えば私が学生・院生の頃は、特定の本を読むための自主的な研究会がいろいろあった。院生を中心とした自発的な取り組みが期待される。



【思ったこと】
_60119(木)[心理]医療・看護と福祉のための質的研究セミナー(5)書くことのコツ


 今回の基調講演の中で、田垣氏は、書くことのコツについていろいろと伝授された。それらは決して質的研究に限定されるものではない。卒論生や修論生にとって大いに参考になるだろう。なるほどその通りだと思った点をいくつか挙げさせていただくと、まず

●タイトルには「〜に関する一考察」というような冗長な語句は入れない

これは私のところでもすでに指導している。

 次に

●要約では、「〜について検討した」「〜について考察した」などとは書かず、何が分かったのかをしっかり書くことが大切。

という点。「検討した」という表現は種々の学会発表要約でもしばしば見られる。本当は、発表申込みの時点ではまだ結果が出ていないのかもしれない。

 もう1つ、これは質的研究に限定されたコツだが、

●質的研究をする理由を具体的に、先行研究をふまえながら書く

というのも大切なことだと思った。但し、「質的」研究を行うという意味は、単に質的なデータを扱うということではなく、なぜ面接法中心になったのか、行動観察や周囲の環境についても合わせて分析したのか、またそれらをしなかった場合は、なぜしなかったのかについてもちゃんと書くべきだというのが私の考え。

 田垣氏も何度か指摘しておられたと記憶しているが、とにかく「統計的解析は難しいからイヤだ」という理由で質的研究を行うというのでは敗北主義である。

【思ったこと】
_60120(金)[心理]医療・看護と福祉のための質的研究セミナー(6)質的分析のコツ

 書くことのコツの話題に続いて田垣氏は、「インタビューのコツ」や、「質的分析のコツ」についても言及された。

 「インタビューのコツ」に関しては、聞き手は喋りすぎるなという指摘がその通りであると思った。話し手にとっては聞き手のことなどどうでもいいことなのだと自覚しなければならない。ラポートに配慮することは大切だが、面接調査は決して相互理解を目的としたものではない。話し手と聞き手との関係は一期一会、将来の関係維持を想定すべきではないと思う。

 次に「質的分析のコツ」に関しては

  • 確立された分類を用いない。ICF(International Classification of Functioning, Disability and Health)を用いるなどは論外
  • 一問一答風のまとめは分析ではなく単なる羅列
  • 目前の現象を異星人に説明するように記述すると、当たり前のことが当たり前になっている仕組みが分かる
  • 語りの直接引用は簡潔に
といった点を指摘された。このうち特に2番目と4番目は、私の所の卒論でもしばしば見られる現象である。たぶんこれは「分厚い記述」への誤解から生じるものではないかと思う。そう思いつつ、Googleで「分厚い記述」を検索したら、こちらこちらの文献リビューが上位でヒットした。おや、前に読んだことのあるレビューだなあ。




 結果のまとめ方に関して田垣氏は、もう1つ重要な点を指摘された。それは
  • インタビュー対象者すべてを詳細に提示するのではなく、代表事例(典型例)を提示する
  • 但し、なぜそれが代表事例であるのか、根拠を明示する必要がある
  • 「最頻例」は必ずしも代表例ではない
  • 例外や反証も出すべき
といった点である。

 確かに、我々にとって、最頻例が最も重要であるとは限らない。これと同じことは、昨年9月、日本心理学会のシンポの中の矢守克也氏の話題提供でも伺ったことがある。

 ここからは私自身の考えになるが、代表例が示しにくいような対象では、むしろ多様性を強調したほうがよい。但し、「あれもある、これもある」ではそれこそ事例の羅列になってしまって収拾がつかなくなる。その場合は、あらかじめ研究が何によって要請されているのかを明示した上で、その要請にふさわしい何らかの比較軸・対立軸を設定し、それに基づいて事例を整理して示すことが大切でないかと思う。

【思ったこと】
_60122(日)[心理]医療・看護と福祉のための質的研究セミナー(7)観察法の重要性

 今回からは
●シンポジウム 医療と福祉における質的研究の実際
話題提供 高齢者と"場"の研究−Grounded Theoryを用いた場合     (竹崎久美子氏・高知女子大学看護学部)
文化としての“健康観"の探究―エスノグファーの目から見た高齢者にとっての健康(大森純子氏・聖路加看護大学)
高機能広汎性発達障害当事者の手記から読み取れる障害認知−独立型社会福祉士が当事者の視点をもつために(今泉佳代子氏・いまいずみ社会福祉士事務所)
コーディネーター 操華子(聖ルカ・ライフサイエンス研究所)
について感想を述べさせていただくことにしたい。なお、今泉氏は当日の緊急のご事情により欠席され、田垣氏が代理発表をされた。

 まず、竹崎氏は質的研究の歴史やGrouded Theoryについて、わかりやすい解説をされた。そして、
  • 個人の中で起こる心情や思い行う研究ばかりでなく、場と個人がどのように相互作用しているのかを知ることも大切
  • インタビューで「本人がそういった」こと自体は信頼性のあるデータとなるが、日常的な営みは必ずしも意識化(→要するに、言語化して報告すること)されないことが多い。
  • 参加観察を行えば、それらを把握できる。但し、正確に場面が切り取れるか、起こったことを正確に記述できているかは、裏付けが難しい。
として、特に参加観察のポイントについて伝授していただいた。

 感想の1回目でも述べたように、私自身は、質的研究はどうもインタビューに頼りすぎているのではないかなあと、参加観察、もしくは、観察と言語報告を的確にリンクさせる必要があるのではないかなあと、思いつつあるところだ。

 ところで、行動分析でも行動観察は研究方法として基本中の基本であり、仮に実験的方法を導入する場合でもまず、ベースラインとしての行動観察は欠かせない。但し、この場合には、最初から、オペラント、強化刺激、弁別刺激といった観察の枠組みが決まっている。要するに行動分析でいうとことの観察というのは、
  • オペラント行動の単位を明確にし、その頻度を測定する
  • その行動が何によって強化されているのかを明らかにする
  • その行動の手がかりとしてどのような弁別刺激が関与しているのか明らかにする
といったことを基本としている。この枠組み無しに漠然と事態の推移を記録しても、生産的な情報は得られない。今回のセミナーで紹介された観察法では、これに代わるどのような観察・分析の枠組みがあるのかがポイントであったと思うが、私自身にはまだ十分には理解できていない。

 配付資料の終わりのほうで竹崎氏は、
実践学である看護学がめざすべきは、やはり実践の改善、より質の高いサービスの提供であり、今は介入研究が注目を集めている。
と記しておられた。こうなると、行動分析の視点とどうしても融合せざるをえないのではないか。但しその場合にも、「当事者の視点で現象を理解する」ことが大切であるというのが今回のご発表の趣旨であると理解した。

【思ったこと】
_60124(火)[心理]医療・看護と福祉のための質的研究セミナー(8)研究とは何か、理解とは何か


 「シンポジウム 医療と福祉における質的研究の2番目は

●文化としての“健康観"の探究―エスノグファーの目から見た高齢者にとっての健康(大森純子氏・聖路加看護大学)

という話題提供であった。

 大森氏の話題は

●私たちはどうして研究するのか?

という根本的な問いかけから始まった。そして、医療・看護・福祉の研究においては、対象の理解と実践の理解が大切であることを指摘された。

 この御指摘はその通りだと思ったが、問題は何をもって「理解された」と見なすのかということになる。予測と制御を目ざすことなのか、了解や共感を重視するのか、それ以外の理解のしかたがあるのか、このあたりはなかなか難しい。

 実践活動の理解においては、研究の問いがどこから生まれるかに注目し、「何だかよくわからない」を、「これって何だろう?」「どうしてだろう?」、「どうなってるの?」「なぜこうなったんだろう?」「それってこうかも?」といった具体的な問いかけに転化する必要があるということであった。

 ここでまた少々脱線するが、もし行動分析でこの問いを捉え直すなら
  • 「これって何だろう?」→強化刺激なのか、弁別刺激なのか、レスポンデント条件づけの無条件刺激や条件刺激なのか
  • 「どうしてだろう?」→どのような随伴性で強化されるのか
  • 「どうなってるの?」→行動はどのように遂行され、どのように変容しているか
  • 「なぜこうなったんだろう?」→どのような随伴性が働いたのか
  • 「それってこうかも?」→似たような条件づけ場面と比較し共通性をさぐる。もしくは、一般原理との対応づけを試みる
といったことになるが、エスノグラフィーではどう分析されるだろうか?

【思ったこと】
_60125(水)[心理]医療・看護と福祉のための質的研究セミナー(9)自分への誇りと文化

 「シンポジウム 医療と福祉における質的研究の2番目

●文化としての“健康観"の探究―エスノグファーの目から見た高齢者にとっての健康(大森純子氏・聖路加看護大学)

の後半は、

●高齢者にとっての健康:『誇りをもち続けられること』〜農村地域におけるエスノグラフィーから〜(日本看護科学会誌, 2004, 24, 12-20.

というご自身の論文を題材にした、研究の進め方の紹介であった。

 ここでまた、話題提供の内容から少々脱線するが、ここでは文化は、
文化とは、経験を解釈して行動を生み出すために、特定集団の人々が伝承し、身についている知識である。
という、Apradley(1980)の定義が採用されていた。大森氏は、この定義に基づき、文化としての健康の記述を目ざす必要からエスノグラフィーを採用する必然性を強調された。

 じつは、ちょうど1月25日の授業で、

●Glenn, S.S(2004).Individual Behavior, Culture, and Social Change. Behavior Analyst. 27, 133-151.

という行動分析の立場からの文化の定義を取り上げたばかりであった。個人的にはGlenn先生の枠組みで文化や社会行動をとらえることは非常に有意義であると思うのだが、私自身はまだ具体的事例に対するアプローチのしかたを自分の言葉で述べられる段階に至っていない。そのうち、比較考察をしてみたいと思っている。




 もとの話に戻るが、

●自分への誇りをもち続けられること

というのが高齢者にとっての“健康"のテーマになるという結論は納得できるものである。これは、「老化によつ身体の衰え」、「農業の機械化による役割の喪失」、「家族の一員としての立場の喪失」といった高齢化に伴う坑えない現実に拮抗するものであり、「自身で何でもできる自分」「農業を続けられる自分」「家族に役に立つ自分」といった「自分への誇り」として保持されるものである。

 もっとも、この結論が直ちに「文化」と結びつくのかどうか、むしろ、こちらの論文にも書いたように、文化とは独立した「能動性の原理」、つまりスキナーが言うところの「能動的に行動し、適切に強化される機会の保証」こそが結果的に自分への誇りをもたらしていると考えたほうがスッキリするように思える。

【思ったこと】
_60126(木)[心理]医療・看護と福祉のための質的研究セミナー(10)独立型社会福祉士の活動

 「シンポジウム 医療と福祉における質的研究」の3番目は

高機能広汎性発達障害当事者の手記から読み取れる障害認知−独立型社会福祉士が当事者の視点をもつために(今泉佳代子氏 いまいずみ社会福祉士事務所 オフィスぷらんぷらん)

という話題提供が行われるはずであったが、当日の緊急のご事情により欠席され、田垣氏が代理発表をされた。

 今泉氏は、「独立型社会福祉士」として、個人で福祉事務所を開業されている。スタッフには、教育系、心理系、など異なった専門家や学生が参加し、すべてのケースに異業種でチームを組み、支援活動に取り組んでおられるとのことだった。現在の支援の対象は、高機能広汎性発達障害、ADHD、LD(学習障害)などであるが、実際は全員、高機能広汎性発達障害に該当しているらしい。

 配布資料によれば、今回予定されていた話題提供は、すでに公刊された当事者の手記何本かを改訂版グランデッド・セオリー・アプローチにより分析し、当事者が「高機能広汎性発達障害」であると診断された前後で、自己肯定感がどのように変化したのか等を分析するというユニークな内容であった。但し、このアプローチでは、当事者が主観的に著した手記であるということの制約、また、手記が著されたということは、同種の障害者の中でもある程度乗り越えられた人に限定されているという制約がある。




 余談だが、今泉氏のような独立型社会福祉士は、組織にしばられない自由で創造的な活動ができるというメリットがある。半面、一定の研究体制づくりは必要だというのが田垣氏の御指摘であった。たぶん同じような問題は、発達障害ばかりでなく、高齢者福祉活動を推進するためのNPO諸団体についても言える。自由度が高いのは良いのだが、自己流に陥ってはいけない。相互批判と、学術レベルの向上をめざすためのネットワークづくりが大切ではないかと思った。いずれにせよ、次の機会にぜひ直接お話しを伺ってみたい。

 なお、この日記を連載中、基調講演者の田垣氏からメイルをいただいた。引用のご許可が得られれば、次回に追記させていただくことにしたい。

【思ったこと】
_60129(日)[心理]医療・看護と福祉のための質的研究セミナー(11)まとめ、ライフストーリー研究の重要性、ナラティブセラピー

 参加感想の11回。この日記で何度も述べているように、学会や各種セミナーに参加した時の感想は、2週間以内に完結させるように心掛けている。今回も、これをもって最終回とさせていただく。

 さて、この連載の前半で田垣正晋氏の基調講演について感想を記した、御本人からメイルをいただいた。御本人から御許可が得られたので、その一部を紹介させていただく(改行箇所などを一部改変、【 】内は長谷川による補足)。
 私自身は、恥ずかしながら、量的研究を読めても、やったことがなく、もしかすると「敗北主義」から質的研究を始めてしまい、結果的に、どうにかなったのでは、と反省しています。ちなみに、質、量、ともに、研究方法論は、外国語と同じだと思います。

英語を例にしますと、
  • 当該方法論に基づいて実際に研究をして書かれた論文を読める=リーディングやリスニング
  • 当該方法論に基づいて実際に研究をして論文を書く=ライティングやスピーキ ング
となるとおもいます。前者は修士課程以上の院生ならば、必須ではないかと思っています。一方後者は、いくら学んでも、使わなければ、忘れてしまう、ために、質、量双方で恒常的に「書ける」ことは、相当大変なのではと思います。

ところで、インタビュー依存と観察軽視(回避)は、私の属する社会福祉学科では、深刻です。学生諸氏は、知的障害者や精神障害者など、言語報告に支障がある人々に強い関心を持っているにもかかわらず、観察技法を学んでいないために(我々教員の責任が大きいのは当然ですが)、援助者や家族にインタビューをして、卒論を書きます。
【長谷川の感想】また、福祉・医療場面でも同様であって、インタビュー結果を分類・関連づけしたり、そこから仮説生成するだけで福祉行政に有効な提言ができるものだろうか。このあたりの疑問を解決できればと思った次第である。
というところで、私も同様の問題意識を持っています。
アカデミズムと政策現場との単純な二分法はつつしまねばならないかもしれませんが、後者にいる人々が納得できるような、方法(論)は、前者とはやや異なると思います。今、思っているのは、行政がする「実態調査」や「ニーズ調査」等の、施策立案のための調査は、厳密には、仮説生成だと思います。近隣の市の審議会で、グループインタビューやアンケートの企画をしている経験上、行政職員は、仮説検証というだけの、「仮説」を、調査の前にたてません(たてられない)し、まして、検証、したりしていません。もっといえば、調査をするだけで終わってしまい、仮説生成をして、「こういう結果がでたから、こういう施策をしよう」という行政は、私の経験上、少数だとおもいます。
 ご丁寧なお返事をありがとうございました。

 ところで、田垣氏は、基調講演の最初のほうで「障害受容」や「ノーマライゼーション」という概念に疑問を呈しておられた。御講演の中だけではその理由がイマイチ分からなかったのだが、会場で同時に配布された

●田垣正晋(2004)身体障害者の障害の意味に関するライフストーリー研究の現状と今後の方向性 人間性心理学研究, 21(2), 198-208.【こちらから閲覧可能】

およびその他の論文を後日拝読し、その趣旨を理解することができた。「ノーマライゼーション」に関しては、確か、基調講演の中でも、西欧先進国型の発想であると指摘されていたように思う。

 じつは私自身、遅ればせながら最近になって、生涯発達心理学やライフストーリー研究の重要性を認識するようになった。私がこれまで考えてきた「能動主義に基づく生きがい論」というのは、いま生きている瞬間において、やる気、生きがい、達成感を引き出す行動分析のモデルであって、この考え方は決して間違っていないと思う。しかし、それだけでは長期間にわたる人生の変遷を意味づけることができず、いわば、独立した短編小説集のようなモザイク的な生き方しか提供できない。

 とはいえ、人生のそれぞれの過程で獲得されること、喪失を補うもの、変化の多方向性を規定するモノは、おおむねその状況での行動機会と強化随伴性に依存しており、行動随伴性を抜きにして意味づけを行ってもフィクションの世界になってしまうのではないかという気がする。また、長期的なスパンにおいて、その間に経験したことや出来事を意味づけ、関連づけするというのは、信念や態度にも関わる1つの行動であって、これは、
  • Guerin (1992). Behavior Analysis and the Social Construction of Knowledge. American psychologist, 47(11), 1423-1432.
  • Guerin (1994). Attitudes and Beliefs As Verbal Behavior. The Behavior Analyst, 17, 155-163.
など、Guerinがスキナーの言語行動理論を発展させる形で展開したアイデアでより生産的に対処できるのではないかと私は考えている。このあたりのことは、私の、次回の紀要論文に記したいと思う。

 なお、田垣氏の論文の趣旨からは外れるが、ナラティブセラピーについては私は今まで、その効果に対して懐疑的であった。ストーリーを書き換える程度のことで生き方が変えられるとは到底信じられなかったからである。

 しかし、つい最近、冬のソナタの最終部分のシナリオを書き換えるなどという試みをやってみて、ナラティブセラピーの効果についてもいくらか確信が持てるようになった。

 「冬ソナ」は作り事のドラマにすぎないが、それにハマってしまって自分の人生の一部であるかのようにその展開が気になり、なおかつその一部の展開に納得ができなかった場合、自分なりにシナリオを書き換えることでやっと安心することができた。ドラマと異なり、現実の人生では、実際に起こってしまった出来事をカットすることはできないが、何も、不快な体験のすべてを自分のストーリーに組み込む必要は無い。中途障害や死別といった変えられない現実は受け入れるとしても、もはや済んでしまった失敗、あるいは失恋体験のようなものは、場合によってはカットしたほうがよい。このあたりのことも、次回の紀要論文で触れようかと思っている。