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サステイナビリティ学連携研究機構公開シンポ2007年2月3日(土) 東京大学・安田講堂 |
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【思ったこと】 _70203(土)[心理]サステイナビリティ学連携研究機構公開シンポ(1) 2月3日に東京大学安田講堂で行われた ●サステイナビリティ学連携研究機構(IR3S) 公開シンポジウム − 資源と環境が支える地球と人類の未来− に参加した。 このシンポは昨年も参加しており(こちらに参加報告あり)、今回が2回目となる。機構の公式サイトにあるように、サステイナビリティ学とは 国際社会が抱える喫緊の課題を解決し、地球社会を持続可能なものへと導く地球持続のためのビジョンを構築するために、その基礎となる新しい超学的な学術が「サステイナビリティ学」(Sustainability science)である。のことである。私個人は、スキナーの『科学と人間行動』こそが地球社会を持続可能なものへと導く最良の方策を提示していると思っているのだが、その視点を持ちつつ、現代日本のトップが何を目ざしているのかを知る目的で、昨年に引き続き参加させていただいた。 さて、いま「現代日本のトップが」と書いたが、この機構は、学術面でも政治、財界への発言力という点でも、まさにトップにふさわしい顔ぶれとなっている。 まず、参加大学は、東大、京大、阪大、北大、茨城大の5大学、協力機関は現在のところ4機関であるが、近々さらに複数の機関が加わるという。個々人の日常生活レベルにおけるサステイナビリティへの貢献、あるいは、地球環境にやさしい地場産業の育成というような研究だったら地方大学でも取り組み可能であろうが、国家レベル、財界、さらには世界全体に影響を及ぼす力を持つということにおいては、この機構をさしおいて新たな運動を展開することはまず不可能と思われる。 昨年のシンポでは、小池・環境大臣が記念講演をつとめられ、ずいぶん大物を呼んでくるものだなあと思ったが、今年は小宮山総長の趣旨説明に引き続いて
安田講堂の中に入るのは、安田講堂にマンモス出現!を含めてたぶん3回目ではなかったかと思う。最初は、さすが、最高学府の講堂だけあるなあと感心したものだが、何度か訪れてみると、むしろ不便さが気になるようになった。まずとにかく座席も通路も狭い。なんでも収容人数は1144席だそうだが、大地震でも起こった時、外に出ようとする人が出口に殺到してパニックにならないかどうか心配だ。それと、収容者の数に比べてトイレがあまりにも少ない。今回も休憩時間にトイレを待つ長蛇の列ができた(→講堂の外に出て別のトイレを利用したほうがよっぽど早い)。 |
【思ったこと】 _70204(日)[心理]サステイナビリティ学連携研究機構公開シンポ(2)奥田碩氏の講演 シンポでは、小宮山・東大総長の趣旨説明に引き続いて、奥田碩・トヨタ自動車取締役相談役による ●「産業界における資源・エネルギー問題とサステイナビリティ」 という講演が行われた。 奥田氏のことについては「奥田・経団連会長の世界一周の夢」と題して一度、2006年4月25日の日記で取り上げさせていただいたことがあった。直接お顔を拝見するのは、もちろん今回が初めてである。 ウィキペディアによれば、奥田碩(ひろし)氏は1932年のお生まれ。トヨタ自動車株式会社の、社長、会長、日本経済団体連合会初代会長などを歴任され、現在は、取締役相談役に就いておられる。ウィキペディアでは「奥田の発言を巡る反発と騒ぎ」と題して過去のいくつかの話題が取り上げられているが、「大手マスコミの沈黙」のせいか、あまり騒がれていないようだ。今回、何か「爆弾発言」でも飛び出すかと注意深く拝聴したが、実際には、パワーポイントも使わず、用意された原稿を淡々と読み上げるだけのご講演に終わった。 ご講演の内容自体について特に感想は無いが、世界的な大企業がエネルギー問題やサステイナビリティに取り組んでおられるというのはまことに心強いことである。次の講演者の川口順子氏のお話にもあったが、最近では米国の次期大統領選を前に、環境団体と企業が連携して、次期候補に環境問題についての取り組みを要請するという動きもあるという。 もっとも、大企業取り組む地球環境問題というのは、あくまで、自らの企業活動を守ることが前提になる。自動車会社に関して言えば、燃費節減やバイオエタノールなどの開発には熱心に取り組むが、例えば「出勤は公共交通機関で」というような、車が売れなくなるようなキャンペーンを展開することはあるまいと思う。そういえば、シンポの最後のところで、フロアから「タブーをつくるな。航空機が温暖化の元凶になっていることも問題視すべきだ」というような発言があったが、おそらく、大手航空会社にしてみても、「国内移動は航空機を使わず、なるべく鉄道で」というキャンペーンは展開できないに違いない。結局のところ、大企業連携のサステイナビリティ学は、現在の資本主義経済の延長上で展開されるほかはないという宿命にある。 とはいえ、この問題に地球規模で取り組むためには、強大な発言力、影響力を行使することが絶対に必要。個々人が自己満足的にエコライフに取り組んでいるだけでは手遅れになるほどに、喫緊な問題となっていることも事実である。そういう意味では、経済界や政界と連携して実現可能な現実的な方策をさぐることも大切であろうと思った。なお、このあたりの議論は、川口順子氏のご講演のなかでより鮮明になる。 |
【思ったこと】 _70205(月)[心理]サステイナビリティ学連携研究機構公開シンポ(3)川口順子氏の講演 奥田碩氏に続いて、川口順子参議院議員(元外務大臣・元環境大臣)による講演が行われた。 川口氏の演題は、当初は ●「もっと環境先進国へ − あなたの選択が温暖化を防ぐ」(仮題) と紹介されていたが、最終的には ●「もっと環境先進国へ 〜私からの提案〜」 というように変更されていた。 ウィキペディアによれば、川口順子氏は1941年のお生まれ。東京大学教養学部卒、エール大学大学院経済学修士課程御修了なので、安田講堂ではかつてご自身の卒業式にも出席されていたことになる。ウィキペディアでは 女性官僚の草分けの一人として、通商産業省で活躍した。官房審議官を最後に退職。サントリー常務を務めていたが、第2次森内閣で環境庁長官に就任。続く小泉内閣でも環境大臣を務めたが、国際会議などでの手腕が評価され、田中眞紀子の後任の外務大臣に任ぜられた。外相時代は「民間人に重要閣僚が務まるのか」と反小泉派や野党から批判され続けたが、その手腕は手堅く、アメリカのパウエル国務長官らの評価も高かったという。と紹介されているが、今回も、豊富な実務経験と実績に裏付けられた、理路整然としたお話を拝聴することができた。なお、ご自身はこちらに公式サイトをお持ちで、その中からは公式ブログへもリンクされている。 川口氏はまず、地球大で進行する環境破壊について、図にもとづいて簡単な説明をされた。重要な点は、地球環境の変化は、自然環境を破壊するばかりでなく、人間社会や経済のあらゆる場面にも打撃を与え、またそれらの悪循環がさらに大きな打撃をもたらすと予告されていることにある。 例えば、異常気象の頻度が増加すれば災害も頻発し、それによって保険会社の支払い額が増加、ついには経営破綻に陥る。そして連鎖が経済に大打撃を与える。また、自然環境の破壊は原油価格高騰をもたらし、これによって途上国での貧困の悪化、難民の発生、政情不安,...といった安全面への打撃につながる。 これらの御指摘はまことにもっともだと思う。仮に隠居の身になって悠々自適の生活を送ろうとしても、台風や竜巻で屋根が吹き飛ばされるかもしれないし、年金が受け取れず、頼りにしていた金融資産があいつぐ企業の経営破綻で無価値になってしまうということもありうる。老後はゆったりと海外旅行へ、などと思ってみても、政情不安で渡航自粛、どこの国にも旅行できなくなっているかもしれない。 川口氏は、これらをふまえて、
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【思ったこと】 _70206(火)[心理]サステイナビリティ学連携研究機構公開シンポ(4)川口順子氏の講演(2)「科学的不確実性」と「原因と被害の乖離」 講演の中で川口氏は、地球環境問題の解決が困難である一般的な理由として、
3点のうちまず1.の「科学的不確実性」であるが、これは、 問題の地理的・時間的規模が大きいため、因果関係やメカニズムを科学的に把握することが困難 というように説明されていた。また2.「原因と被害の乖離」は 原因行為と被害発生が、地理的・時間的に乖離するため、原因者が問題解決の動機を持つことが困難という意味である(いずれも長谷川のメモに基づく)。 例えば、河川の堤防を改修したにもかかわらず、そこが決壊して洪水になったとする。この場合の因果関係は、洪水の原因は手抜き工事か設計ミスか、...というように容易に把握することができ、将来の改善に役立てることができる。しかし、例えば、いまニュースとして取り上げられているジャカルタ洪水のような場合、直接原因は豪雨であると分かっても、それがエルニーニョによるのか、さらにはエルニーニョ頻出が地球温暖化の表れなのか、というようなことまではなかなか分からない。 環境破壊は明日やあさってではなく、何十年も後に悪影響を与えるという点でも、改善行動を起こしにくくしている。しょせん人間は、行動随伴性により強化されたり弱化されたりするという、しがらみの中から逃れられない動物である。行動の直後に結果が伴わない限りは、行動はそう簡単には変えられない。 講演を拝聴している最中には
要するに1.は、自然科学の問題であって、この方面での研究が進めば、将来起こりうる被害の規模や中味についての予測したり、即効性のある防止策を打ち出せるようになる。このほか、多額な経費を要する事業では「客観的な証拠」が求められる。そのさい「レトリカルな客観性」であろうとなかろうと、とにかくデータに基づいて議論をする上では、自然科学的アプローチはぜひとも必要となる。 いっぽう2.のほうは、自然科学ではなく、行動科学が取り組むべき問題。いくら、「この化学物質は河川を汚染する」という証拠があったとしても、上流域に住む人々にとっては、それを川に流すことで直接被害をこうむることはない。要するに、因果関係やメカニズムを解明しただけでは行動を変えることはできない。別段、自然科学の力を借りなくてもいい。道徳であれ宗教であれ、とにかく、環境にとって望ましい行動を強化し、望ましくない行動を弱化する行動随伴性の仕組みをつくらない限りは、行動を変えることはできない。川口氏の講演では「原因者が問題解決の動機を持つことが困難」とされていたが、行動分析的にはこれは「環境汚染の原因となる行動を直接的に強化・弱化することが困難」と言い直すことができるだろう。 |
【思ったこと】 _70207(水)[心理]サステイナビリティ学連携研究機構公開シンポ(5)川口順子氏の講演(3)市場メカニズムか規制的手段か 講演の中で川口氏は、地球環境問題の解決が困難である一般的な理由として、
川口氏によれば、京都議定書の実施に向けた交渉では、対立の基本的なポイントとして以下の4点があった。
また2.の点に関しては、小泉政権以降の日本でも顕著になってきているが、「規制的手段」よりも「市場メカニズム」を重視する立場が優勢になってきているように私は思う。行動分析でいえば、これはまさに、「正の強化(「好子出現の行動随伴性」)」による調整といってよいだろう。ちなみに、ヨーロッパでは、市場原理活用より規制的手段のほうを主張する傾向があるそうだが、そのヨーロッパにあっても、「排出権取引」のような市場原理を持ち出す動きがあるという(←「排出権」については、インドなどからそもそも「排出」は「権利」なのか?という批判が出ており、「排出量取引」と呼び方を変えることもあるらしい)。 では、国際的な合意が困難な状況にあって、地球環境問題解決のために何が必要なのだろうか? 川口氏はこれに関して、
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【思ったこと】 _70208(木)[心理]サステイナビリティ学連携研究機構公開シンポ(6)川口順子氏の講演(4)アカデミアに期待される大胆さ、総合的視点、提案力 講演の中で川口氏は、世界の参加する地球温暖化対策の枠組みとして、
研究者や環境保護団体の活動家はとかく理想論ばかりを唱え、国の見通しが甘いとか、弱腰である、などと批判をする。しかしいくら内部で批判をしていても、現実的で確実に成果を挙げられるような妥協点を見出していかなければ、けっきょくは何もしないことと同じになってしまう。いっぽう、政治家はしばしば、自分の任期中の成果や、地元や出身母体の利益ばかりを優先する傾向にあるが、この問題は次世代以降の繁栄、というか、人類の存続に関わるほどの重大な問題である。目先の利害に囚われていては先に進めない。 こうした視点に立って、川口氏は、企業に対して、アカデミアに対して、行政に対して、政治家に対して、そして国民に対して、それぞれ提案を行って、お話をまとめられた。 そのうち「アカデミアに対して」の部分では、
これらはいずれも、地球環境問題に取り組む研究者にとって重要であると思う。 まず1.だが、研究者はとかく、実証性を重んじるばかりに、主張内容が慎重になりすぎるきらいがある。そのことが結果的に、環境破壊の想定規模を低く見積もったり、加害者として疑われている企業に有利な証拠を提供してしまったりすることにつながる。また、慎重になりすぎるあまりに、「Aという前提条件のもとで、BとCが境界値を超えた場合には、確率χ%で、Dという事態が発生する恐れがある」というように、やたらと前提条件をつけて意見を言うことがある。もちろん正確な情報を発信することは大切だが、情報は活用されてこそ価値が出てくるものだ。大地震の予測などもそうだが、大胆に予測が結果的に「空振り」に終わったとしても、甚大な被害をこうむるよりはマシだという考えもある。 2.の点は、研究が進めば進むほど知識は細分化しタコツボ型になりがちであることへの批判でもある。サステイナビリティ学連携研究は、まさにその問題をふまえた上で総合的な視点をめざすものと言えよう。 3.の「提案力の強化」もなるほどと思った。地球規模の環境問題は、国家レベルでの協議、あるいは大規模な予算や法的規制なしには解決しえない段階にきている。いくら研究者たちが学会のレベルで熱心に取り組んでも、、政治・行政への発言力を行使できなければ意味をなさない。 |
【思ったこと】 _70211(日)[心理]サステイナビリティ学連携研究機構公開シンポ(7)「環境問題のウソ」と人類に求められる慎ましさ 3番目はGarry Brewer(ゲリー・ブルーワー)・イエール大学教授による ●未来を創る:持続性へのシナリオ構築 という講演であった。ここでは、国際的な合意形成に向けての問題点、コミュニケーションの重要性、シナリオ構築が説かれていたが、中でも印象に残った言葉は ●Problems are Human Constructions----Not "Objective Realities" ということであった。2月6日の日記でも述べたが、地球環境をとりまく諸問題というのは、現実に直面する物理現象ではなく 、人類の全体的な合意と、それに基づいて望ましい行動をどのように維持・強化するのかという問題である。 さてここで、HoriucciさんのWeb日記「MADE IN JAPAN!(2/8付け)で ちくまプリマー新書029、池田清彦著、「環境問題のウソ」、ISBN4-480-68730-0 という本に言及されていたのでちょっと脱線してみたい。私自身はこの本をまだ拝読していないので直接のコメントは差し控えたい。ネットでは、かつてマイナスイオンの問題(←そういや、これも、あの「あるある」だった)などでリンクさせていただいたことのある、安井至氏が ●「環境問題のウソ」のウソ というコンテンツでコメントを寄せておられる。素人の私には分からない部分も多いが、 池田先生のような人が、日本にあるたった3冊(ロンボルグ、薬師院、渡辺各著)の特殊な温暖化ウソ論の本だけを読んで、しかも、それらの本が根拠としているデータを自ら検証することもなく、さらに、そのデータの多くが2001年以前のものであるという状況を十分に調査もしないでこんな本を書くのは、やはり商業主義的出版業に毒されたとしか思えない。という部分と、 この表現がこの本の結論として出ることには同意しがたい。ここで行われている地球温暖化の記述に関しては、正義かどうかという以前に、正しいか、正しくないかという点で問題だからだ。という安井至氏の御指摘はまさにその通りだと思う。この点について、当の池田氏はどう反論されているのだろうか。 このほかネットで検索したところ、増田耕一氏からもこちらのようなコメントが寄せられていることが分かった。 一般論として私は、いかなる主張や「正義」も一度は疑ってみるべきだと思うし、クリティカルシンキングの視点から多面的に捉えることが大切であろうと思っている。しかし、いかなる行動も、現実世界に某かの影響を及ぼすことは確かであり、行動を起こすさいに何よりも求められるのは、環境世界全体に対する慎ましさではないかと考えている。 安井氏御指摘のように、『環境問題のウソ』は「正しいか、正しくないか」というレベルですでに問題がある。しかし、仮に「正しいか、正しくないか」に決着がつかない段階にあったとしても、環境問題への取組は、人間行動に関わる「態度の問題」として議論することができると私は思う。 干潟の干拓にしても、ダム建設にしても、あるいは、ゴミの投棄、化石燃料の大量消費の問題にしても、その影響の有無を純粋に科学的に検討する限りにおいては、必ず、肯定・否定両方の見解が生まれてくるものである。そういう場合にどちらの道を選ぶかと言えば、原則はあくまで「慎ましさを忘れないこと」、「目先の利益にとらわれないこと」であろう。「影響が小さいならOK」ではなく、「影響の大小にかかわらず、できる限り控え目に、慎ましく」を選ぶことである。 |
【思ったこと】 _70212(月)[心理]サステイナビリティ学連携研究機構公開シンポ(8)共生とは何か 3名の方々の基調講演に引き続いて、 ●「資源・エネルギーから考える持続可能な未来社会」 という総合討論が行われた。 パネリストとして参加されたのは、
このうち松尾氏は ●「共生」の概念の英語表記 について、生物学専門用語「Symbiosis」、環境白書等における「Harmonious Coexistence」、その他、「Living Together」や「Co-operative Living」などを比較解説された。ちなみに、「共生」は「共存」(Coexistence)や「共栄」(Mutual Prosperity)とは意味内容が異なっている。 上の例にもあるように、もともと「共生」という概念は英語起源ではなく英語には訳しにくい。もとの出典は唐代の善導大師の「願共諸衆生、往生安楽圏」に由来し、日本では、「共に幸せに生きる」という含意を得て、横尾弁匡氏が用いたのが始まりだという。現代社会が解決を求められている課題は各種の対立構造の中から出現しており、その解決策を提案する1つの考え方として「共生」が用いられるようになったという。 そう言えば、少なくとも私が高校生の頃までは「共生」という言葉は全く使われていなかったように思う。ま、あの頃はまだ冷戦の中で「平和共存」が叫ばれていた時代であった。 ところで共生というと、普通は、「自然と人間との共生」というように、個体それぞれがお互いを尊重し共に生きるというような意味であるように思われるが、松尾氏によれば、「共生」は個体間の関係ではなくむしろ「個と共同体との関係」に焦点があてられているとのことであった。また、その共同体は、家族や地域社会、国家のみならず、自然を含む共同体として位置づけられ、次世代の人まで配慮したものでなければならない。 もし単一の宗教が世界中どこでも信じられていたならば、神の教えを守れば直ちに共生が実現することになるはずであった。しかし現実には、宗教は今や対立の原因にもなっている。それゆえ、自然界を含めた安定的な共同体の保持のために「共生学」が求められるという次第だ。 「共生」概念については私自身もこのWeb日記で何度か取り上げたことがある。上記の点に関して言えば、まず、種としての共生と個体間の「共生」とは別物だということだ。例えば、クマノミとイソギンチャクは片利共生の関係にあると言われているがこれはあくまで種間の話。クマノミどうしは、餌や交尾相手をめぐって競争しているかもしれない。人間においても、「自然と人間の共生」をめざす思想は、人間同士で仲良くしましょうという思想とは必ずしも一致しない。人間同士が仲良しになる思想が環境破壊をもたらすことだってある。 第二に、ウィキペディアに ...日本でも1980年代までの生態学者の書いた教科書では、影響しあう2種の生物の種間関係を、捕食-被食関係、競争関係、共生関係、寄生関係の4つのパターンに分類し、これらのうち、あくまでも主流とみなすべきは捕食被食関係と競争関係であり、共生や寄生は例外的なものとして重視するべきではないと書かれたものもあった。と説明されているように、生物学的な意味での共生概念には変遷があり、必ずしも「対立構造の中から出現しており、その解決策を提案する1つの考え方」にはならない点にも留意する必要がある。 さらに言えば、我々はふだん、多様な種が混在する自然風景を目にしているが、あれは一見「共生」であるように見えて、実は、生存競争のバランスの上に成り立っていることが多い。環境破壊というのはしばしば、共生をぶちこわすのではなく、生存競争のバランスを変えてしまう時に起こる。 話題提供の最後のところで松尾氏は、 「四則演算は万国共通の法則」であり、「引き算の方法が国によって異なり、お釣りの出し方が違えば、安定的な国際秩序は保てない」という例を引き合いに出して、「共通の法則」としての「共生学」の重要性を説かれていたが、うーむどうかなあ、お釣りの額は共通であるとしても、お釣りの計算のしかたは文化によってずいぶんと異なるように思われる。というか、日常生活では引き算を殆ど使わない国もある(→お釣りを出す時には、足し算で計算をするという国は結構多い)。 このあたりのことはおそらく、社会構成主義的に精査していく必要があるのではないかと思うのだが、このことは別の機会に論じることとしたい。 ちなみに、今回取り上げられた話題は、 ●『共生のかたち 「共生学」の構築をめざして』(ISBN:4414120535) で詳しく解説されているとのことなので、とりあえず、この本を入手してから私なりの考えを述べさせていただきたいと思う。 |
【思ったこと】 _70213(火)[心理]サステイナビリティ学連携研究機構公開シンポ(9)まとめ ●「資源・エネルギーから考える持続可能な未来社会」 という総合討論に関して書き残した点をいくつか。 まず、松尾・東洋大学学長のご発言だが、実際の話題提供は、開始時と、後の討論の2回に分かれていた。 その前半部分では、1972年のストックホルム「国連人間環境会議」開催以降、2005年の京都議定書発効に至るまでの、持続可能性に関する論調が紹介された。「持続可能な開発」(Sustainable Development)という考え方は、「環境と開発に関する世界委員会(WCED)」の「われら共通の未来(Our Common Future)、1987年)に登場し、 将来世代が自分たちのニーズを満たす能力を損なうことなく現代世代のニーズを満たす開発または進歩として定義されている。詳しくはウィキペディアの説明を参照されたい。 松尾氏は、「持続可能な開発」ということに関して、
このうち1.は、環境、エネルギー、資源、生態系、自然そのものなどがキーワードとなる。 持続すべきものが明確にされれば、現実の危機の有無が科学的に実証しなくても、持続に向けた行動プログラムを創り出すことができるはずだと思う。もっとも実際には、人は後世よりも目先の利益で強化される宿命にある。また、国際的な戦略的な意図や超長期的な視点からみて、石油資源はさっさと使い果たし枯渇させてしまったほうがよいという主張さえある。なかなか一筋縄ではいかない。 また2.は、利便性の増大、経済発展、人口増大、工業化、都市化、貧困撲滅、平和維持などを含むが、これらはしばしば、先進諸国と開発途上国との対立をもたらす。 松尾氏の話題提供の中では、中国やインドの経済発展が地球環境に与える影響についてたびたび言及された。中国やインドは何と言っても、世界第一と第二の人工を擁する大国である。1人あたりの消費がちょっと増えるだけでトータルでは莫大な量に及ぶ。欧米諸国がいくら努力したところで、これら2大国で効果的な対策が取れなければ、環境破壊は不可逆的に進むに違いない。 このほか、総合討論の中では、 Leena Srivastava(リーナ・スリバスタバ)氏:エネルギー資源研究所(TERI)エグゼクティブディレクター がインドの水問題についてお話をしておられたのが印象に残った。サステイナビリティというと、もっぱら温暖化防止のことばかりが頭に浮かぶが、安全な水資源の確保と供給の問題も大切であろうと思う。もっともインドで今後起こりうる問題については、私自身勉強不足でよく分からないことも多い。少なくとも言えるのは、どこかで人口増加に歯止めをかけないと大変なことになるのではということ。 ということで、このシンポに関する感想の連載を終わらせていただく。日程の都合がつけば、来年もぜひ参加させていただきたいと思っている。 ※このシンポの概要は、2月20日頃の日経新聞特集記事で紹介されると聞いている。 |