じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
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岡大・東西通りはハナミズキで有名だが、その並木の根元にはあまり目立たないものの、たくさんの沈丁花が植えられている。写真のように、花の外側が紅色のものと、全体が真っ白なものが混植されているところもある。なお沈丁花は大部分が雄株で、種はできないようだ。 |
【思ったこと】 130329(金)NHK朝ドラ「純と愛」:ハッピーエンドとは何か NHK朝ドラ「純と愛」が金曜日と土曜日のあと2回で最終回となる。Yahooのテレビ番組案内では、このドラマのあらすじ予告は一週間先まで読むことができるが、3月23日の日記に記したように、最終回のあらすじは、 純は“これからは決して下を向かず、胸を張り、愛する人を守りながら、自分の信じた道を命懸けで進もう”と決める。たとえ愛(風間俊介)が目覚めなくても。眠る愛に改めて自分の決意と愛情を伝えた純は、そっと愛にキスするのだった。で終わっていて、「キスするのだった。」のあとどうなるのかは書かれていない。3月23日の日記では、
いつまでも、ずっとずっといっしょに暮らしたそうです。というハッピーエンドで終わっている。ちなみに、ウィキペディアによれば「ハッピーエンド」というのは和製英語であり、 映画・ゲーム・ドラマ・小説・漫画などにおけるエンディングのひとつ。主人公あるいはメインキャストのグループが幸せな状態を迎え、物語が終息するというパターン。大団円。和製英語。日本民話における締めの「そしていつまでも幸せに暮らしましたとさ……おしまい」。対義語として「バッドエンド」(これもまた和製英語)がある。と説明されている。和製英語ではない英語では「Happy ending」、また多少脱線すると、「「どの3点も同一直線上に並ばない」ような平面上の5点を配置すると、そのうちの4点を頂点とする凸四角形は必ず描ける」というようなHappy Ending problemという数学の証明問題もあるとか。 もとの話題に戻るが、ドラマや童話とは異なり、個人の人生には「ハッピーエンド」なるものは存在しない。どんな人も最後は「死」によって消滅する。信心深い人からは、いやそうではない、その先には天国がある、あるいは必ず生まれ変わるなどとと言われるかもしれないが、仮にそういう世界があったとしても、現世の記憶との連続性が無ければ、それは定義上別人。個人が死んでも、肉体を構成していた原子は決して崩壊せず、宇宙のどこかに存続するという意味では不滅ではあるが...。 このように考えてみると、「純と愛」の最終回で、純のキスで、いとし君が目覚めたとしても、それはあくまで区切りとしてのハッピーエンド。脳腫瘍が完治していない以上、数ヶ月、あるいは数年後にはお亡くなりになるのが必然。認知症が進行している晴海さん(純の母)も同様であり、さらに純自身も、いずれは年老いて死ぬ運命にある。であるからして、どんなドラマにもハッピーエンドはあり得ない。ある区切り、例えば、「結婚」、「再会」、「何かの達成」という形で最終回となった時に、観客がハッピーに感じるのがハッピーエンドであるに過ぎないとも言えよう。そう言えば、「冬ソナ」にしても、ハッピーエンドの最終回にはなっているが、あの先、ユジンと、失明したチュンサンがどういう人生を送ったのかについては何も分からない。結婚してはみたものの、過去の記憶と現実のギャップがあまりにも大きすぎて離婚してしまうという展開だってありうるとは思う。 そう考えてみると、「純と愛」の場合も、いとし君が目覚めるかどうかというのは、ドラマとしては重要な結末ではあるが、これからさき長い人生を歩むはずの純にとっては、1つの区切り、1つの通過点にすぎない。最終回の15分間という制約の中で、ドラマとして何年先までを描くことがよいのか、どこから先は視聴者自身の想像に委ねるのがよいのかという話になってくるかと思う。可能性として、
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