【小さな話題】3か月でマスターする古代文明(5)『都市の論理』と全共闘運動の消滅/『都市の論理』がいま出版されたら...
11月12日の続き。
前回の最後のところで
●都市というと、私が高校生の頃、当時の学生運動に思想的な影響を与えた本があった。確か『都市の論理』(羽仁五郎)という本であったが、理系人間の私自身は興味が持てず、神田の古本屋で立ち読みしても全く理解できなかった。そこに書かれていることと、インダスの都市と関係があるのかどうかも不明。
と記したが、実は高校時代の記憶は殆ど薄れ去られており、書名はもとより、著者の羽仁五郎というお名前も、「確か、『は』から始まるお名前だったが、羽生さんはないし...」となかなか思い出せなかった。そのうちに、確か羽仁進さんのお兄さんだったのでは?と記憶が戻ってきて正しいお名前にたどり着いた。もっともウィキペディアなどで調べたところ【以下、敬称略】、
- 羽仁進;1928年10月10日(97歳)映画監督。
- 羽仁説子:1903年4月2日-1987年7月10日。羽仁進の母。←羽仁進の妻かと思っていたら母だった。
- 羽仁五郎:1901年3月29日-1983年6月8日。羽仁進の父。←羽仁進の兄かと思っていたら父だった。
となっていて私自身の記憶は相当に変容していた。羽仁説子は児童心理学者ではなかったかと思っていたがこれまた全然違っていた。たぶん波多野勤子さんと混線してしまっていたようだ。
雑談はこのくらいにして、ウィキペディアによれば、羽仁五郎の『都市の論理』は、
●晩年は新左翼の革命理論家的存在となり、学生運動を支援し『都市の論理』はベストセラーとなった。
と記されていたが、もともと読書嫌いでとりわけ社会科学系の本には関心が向かなかった私には、なぜ『都市の論理』が新左翼の理論的基盤になったのかが全く理解できなかった。ということでChatGPTに、
●ウィキペディアによれば「(羽仁五郎は)晩年は新左翼の革命理論家的存在となり、学生運動を支援し『都市の論理』はベストセラーとなった。」と記されていますが、『都市の論理』のどういうところが新左翼や全共闘運動のの理論的基盤になったのでしょうか?
と尋ねたところ、以下のような回答をいただいた。
羽仁五郎『都市の論理』(1957–61)は、出版当時の学界よりも、**1960年代末〜70年代の新左翼・全共闘運動の思想的な土壌**として強い影響を与えました。
では、作品のどの部分が「革命理論」として受け取られたのか――それは主に次の4点に整理できます。
- **都市は権力の中心であり、同時に抵抗の舞台である**
羽仁は都市を、
- 権力の集中装置(支配、警察、官僚、資本)
- 同時にそれを転覆しうる「民衆の空間」
として描きました。
> 「都市は支配の道具であると同時に、人間解放の場である」
という二面性の議論は、**「都市そのものが闘争の場である」**という新左翼的空間観に直結しました。
とりわけ全共闘が行った大学・都市占拠(バリケード封鎖、キャンパス自治)は、
**都市=闘争の場**という羽仁の論理を実践化したものとして読まれたのです。
- **民衆の自己解放史観(=下からの歴史)**
羽仁は「歴史をつくる主体は国家でも指導者でもなく民衆である」と明言し、都市史を“民衆の創造”として描き直しました。
これは、
- 階級闘争史観を国家中心主義とみなして批判していた新左翼
- 「上からの革命」ではなく「下からの自律的蜂起」を重視する全共闘
と非常に親和的でした。
**「大学・都市を支配階級から奪還し、民衆自身が自治する」**という全共闘的思想は、まさに羽仁の**民衆主体論**に支えられました。
- **中央集権に対する根源的批判**
羽仁は古代都市から近代都市まで一貫して、「中央集権は都市の論理に反する」と述べています。
これは、
- 党派による前衛支配(旧左翼)
- 国家社会主義的中央集権
- 高度成長による都市の官僚管理
すべてを批判する立場につながるため、新左翼に支持されました。
とくに全共闘運動は、
> 「指導部否定」「セクト否定」「中央否定」
というラディカルな構造を持っていました。
その背後にあった、**「組織や中央の指導なしに、市民・学生が自律的に革命を起こしうる」**という思想は、羽仁の反中央集権的都市論で正当化されたといえます。
- **都市の“全体革命”という視点**
羽仁は都市を「建築だけでなく、経済・政治・文化の統合体」とみなし、都市構造の変革なしには社会の変革はありえないという立場でした。
> 都市の変革 = 社会全体の構造転換
> (革命の空間的基盤)
という考え方は、「大学改革」「都市解放」「生活世界の変革」を同時に語った全共闘の
**全体革命論**と響き合うものでした。
- 🔥 まとめ:『都市の論理』が新左翼の理論的基盤になった理由
| 羽仁『都市の論理』の主張 | 新左翼・全共闘の受容 |
| ------------ | ------------ |
| 都市は権力と抵抗の場 | 都市・大学占拠の正当化 |
| 民衆主体の歴史観 | 指導部否定・下からの革命 |
| 中央集権批判 | 党派批判・分権的運動 |
| 都市の全体的変革 | 生活世界の革命論 |
つまり、『都市の論理』は単なる都市史ではなく、**都市を中心とした解放の哲学=革命論として読まれた**という点が重要です。
羽仁自身も晩年には学生運動に共感し、彼らは羽仁を「都市革命の理論家」として熱烈に受け入れました。
全共闘運動は、安田講堂や浅間山荘事件などを経て1970年代には消滅した。私が大学に通っていた時期はまさに衰退期にあたっており、私が1~2回生の頃は「教養部代議員大会」や各学部の学生自治会の総会に過半数の学生が集まるほどの盛況であったが、私が大学院生になった頃は数十人の学生デモが行われる程度に衰退した【周辺の他大学ではすでに消滅していた】。また岡大では私が赴任した頃は西門交差点の角に過激派の立て看が設置されていたり、数人の若者(外部の活動家が中心)がヘルメットをかぶってビラを配ったりしていたのを目撃したことがあるが、その格好はもはや古典芸能の一種だと揶揄されたりした。その過激派もいつの間にか消滅した。
ChatGPTに全共闘運動が消滅した主な理由を尋ねたところ、その理由は単一の原因ではなく、複数の構造的要因が重なった結果であると分析された。要約部分のみを引用すると以下のようになる。
- 社会的支持の喪失(暴力化・迷走)
- 国家権力による徹底的な弾圧
- 内部対立・分裂・内ゲバ
- 高度経済成長による革命的意欲の低下
- 運動が提案しうる未来社会像の欠如
- 若者文化の価値観シフト
では『都市の論理』が現在出版されたらどう読まれるか? この点についてのChatGPTの見解は以下の通り。
『都市の論理』が **2025年の現在に“新刊として”出版されたらどう読まれるか**――
これは、当時(1960年代)とはまったく異なる読み方が成立します。
現代的文脈に照らすと、大きく **5つの方向**で再評価されると考えられます。
- **巨大都市の限界と「中央の無力化」論として読まれる**
今日の都市は、羽仁が批判した“中央集権的都市”の極限形態になっています。
- 東京一極集中
- スマートシティ化によるデータ集中
- 交通・物流の中央制御
- 兆単位の都市インフラ投資
これらに対し、『都市の論理』が語る
> 「都市は中央のために存在するのではなく、民衆の生活世界から生まれる」
という主張は、**中央集権型都市の限界**を指摘する古典として注目されるでしょう。特に現代の「分散型社会」「ローカル志向」「リモートワーク経済」と強く響きます。
- **ルフェーブル/デヴィッド・ハーヴェイ等の“都市の権利”論と接続して読まれる**
2020年代の都市研究のキーワードは「都市への権利(Right to the City)」。これはルフェーブル→ハーヴェイを通じて発展した都市社会運動の理論です。
羽仁の言う
- 都市は民衆が創造する
- 都市空間は誰かの所有物ではない
という主張は、この系譜と極めて親和的であり、現代では
> 「市民参加型都市」「ボトムアップ型都市づくり」の古典的基礎文献
として読まれる可能性が高いです。
- **“インフラ中心史観”を超えるオルタナ都市史として読まれる**
現代の都市論はデータ・インフラ重視で、交通工学・都市計画・デジタル都市研究に偏る傾向があります。
それに対し羽仁の都市論は、**“都市を人間精神の生成装置”として読む文化史的アプローチ**であり、むしろ現在の都市研究が失いつつある視点を補完します。
2025年の読者には、
- 都市の精神史
- 民衆活動の歴史
- 空間と思想の相互作用
といった **学際的都市研究の先駆者** として捉えられるでしょう。
- **現代の社会運動(フェミニズム、LGBTQ、反監視運動)に引用される**
羽仁が主張した「権威・中央に抵抗する都市」という構図は、現代の社会運動の多くに読み替え可能です。
例:
- フェミニズムによる“都市空間の再占有”
- クィア理論が語る“公共空間の非規範的使用”
- 監視資本主義への抗議としての都市行動
- 路上文化(ストリートアート、スケートボード等)の正当化
『都市の論理』は、**「都市空間の再政治化」** を主張するテキストとして現代でも強い訴求力を持つでしょう。
- **環境問題・持続可能性の文脈で再評価される**
羽仁は都市を「人間の総合的な生存環境」と捉え、資本主義が都市を破壊する構造を早期に批判していました。
今日の文脈では、
- メガシティの気候リスク
- ヒートアイランド
- 災害脆弱性
- 住まいの貧困(都市難民)
などが深刻化しており、羽仁の都市批判は **“持続可能性の古典”** として読み直されるでしょう。
彼の主張は、現代的には
> 「脱成長と都市」
> 「都市は人間のためにあるのか」
というSDGs・ポスト成長の議論とも連動します。
# 🔎 **総合すると:2025年に出版されたらどう読まれるか?**
- ### ■ 1960年代
* 革命・学生運動の理論として読まれた
- ### ■ 2025年
- 分散型社会へ移行する現代の“都市批判の古典”
- 市民による都市への権利の思想
- 巨大都市の限界を照射する警鐘
- 空間と民主主義を考える哲学的テキスト
- 監視資本主義に対抗する都市論
として、むしろ**新鮮でタイムリーな書物**になると考えられます。
この連載の出発点は「権力者も王もいない、富の蓄積もない」都市としてのモヘンジョダロにあった。次回はモヘンジョダロの観点から都市について考えてみる予定。
次回に続く。
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