【思ったこと】 131014(月)私の考える「○○のパラドックス」
不定期ながら「選択のパラドックス」関連の話題を連載している。【初出は7月19日】
ここで、「選択」以外でどのようなパラドックスがあるか、過去日記などで取り上げた話題を拾ってみようと思う。なお、以下は、いずれも私自身が独立に思いついたものであるが、おそらくすでにどこかで誰かが同じ事を考えて発表しているものとは思う。
- 悪人のパラドックス
悪の支配から世界を守れなどという映画が多いが、「悪」だけで成り立つ世界はありえない。というか、悪が勝利すれば、その悪を維持するための新たな善が必要になる。例えば、世界中から悪人100人を孤島に送り込んだとする。そうすると、最初は悪人どうしでの殺戮や略奪が行われるだろうが、いずれは、残った悪人たちによって、平和で安定した社会が作られるようになる。(というか、平和で安定した社会が作られないならばその島の住民は全滅してしまう。住民が生き残っていたとすれば、それは結果的に平和で安定していた社会になっていたことになる。)
- 超能力者のパラドックス
真の超能力者がいたとしたら、人前にはゼッタイに出てこない。なぜなら、超能力(例えば、予知能力や透視能力)は、他者に気づかれないようにこっそり使った時に自分に一番利益をもたらすからである。超能力者であることを知られれば、必ず誰かに脅かされて利用されるようになる。であるからして、テレビに出演するなど、自分が超能力者であることを売り物にしているような輩は、すべてインチキであると断言できる。
- 引きこもり者のパラドックス【2013年9月25日】
家族、友人、ご近所との人付き合いが多い人は、対人接触機会という点でローカルを重視した生活を送っていると言える。それらの人々は、自室に引きこもって読書や調べ物をしている人に比べると交際範囲が広いという点では外向的であるように見える。しかし、いつも特定の友人仲間でかたまってワイワイやっているというのは、見方を変えれば、集団で引きこもっているようなものとも言える。しかも、集団内部の共通の関心領域ばかりに目を向けるので、それ以外の世界には疎いというケースも少なくない。いっぽう、一人で自室に引きこもっている人であっても、いろいろな思想家の本を読んでいるとすると、はるかに多くの人たちと「交流」していることになる。
- 利己主義者のパラドックス
利己主義者とは自己の利益を重視し、他者の利益を軽視、無視する人のことであるが、だからといって世の中の役に立たないというわけではな。利己主義者が、「利己主義はいかに素晴らしいか」という本を出版すれば、それを読んだ別の利己主義者たちを元気づけ、理想的な利己主義の道を目ざす指針を示すという点で、(一部ではあるが)世の中の役に立ってしまう。
- 善人のパラドックス【2013年9月24日の日記ほか】
どのような善人でも、格差社会(あるいは貧富の差)という前提なしには、コツコツと貯めたお金を使うことはできない。なぜなら、お金の究極的な機能は「自分自身のために、人様に働いてもらう(働かせる)」ことにあるからだ。互助互酬が完璧に循環しているムラ社会、あるいはもっと昔の奴隷制社会を別とすれば、お金を使って人様を働かせるためには、何らかの格差が必要である。他者からのサービスや資源確保を必要としない社会があったとしたら、そこではお金は用をなさない。
パラドックスを提示するだけでは、世の中は建設的な方向には進まない。しかし、パラドックスとして示された矛盾を発展的にどう解消していくのかをトコトン議論することは必要。
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