じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
6月上旬に白い花を咲かせていたサンゴジュがいっぱい実をつけている。このあと次第に赤味を増して、8月には真っ赤に色づく見込み。 |
【思ったこと】 140715(火)長谷川版「行動分析学入門」第13回(5)人間と社会に関する諸問題(5)自由とは何か?(1) 「自由」という概念は、国語辞典では、以下のように定義されています。【一部、長谷川により改変、省略】
これに対して、これまで述べてきたように、行動分析学では、自発された行動が直後の結果によって変化(=強化または弱化)することを前提としており、「意志」を前提とする余地は残されていません。 スキナーはいろいろな著作の中で「自由」について語っており、『Beyond Freedom and Dignity』(邦訳「自由と尊厳を超えて」)という本まで刊行しています。昨年、この本の新訳が、山形浩生氏によって春秋社から出版されました(ISBN 9784861103414)。スキナーのもともとの記述が分かりにくいこともあって、この1冊の日本語訳だけでスキナーの考えたうまく伝わるのかどうかは微妙ですが、ネット上では、山形さんの29頁に及ぶ「訳者あとがき」のところが分かりやすい、という感想がちらほら出ています。その289〜290頁のところには 本書でスキナーが言いたいのは、自由を奪え、ということではない。自由なんてもともとなかった、ということだ。人は常に周囲からコントロールを受けていて、あらゆる行動はその結果にすぎない。ぼくたちが自由だと思っているものは、実は単に「コントロールを受けているのにそれを知らない」というだけの話だ。...【中略】...だからだんだんと人と環境との相互作用が解明されてくれば、いままで自由だと思われていた部分はどうしても狭まる。【原文は縦書き。htmlの制約により、ルビを下線に変更】と分かりやすく解説されており、「自由」に関するスキナーの主張は上記でほぼ言い尽くされていると言ってよいのではないかと思います。但し、「コントロール」というと、どうしても、支配者や周囲の人々から操られているという印象を与えてしまいます。しかし、実際には、無人島に漂着してひとりぼっちで暮らしていても、そこでの生活行動は、自然環境がもたらす結果によって強化されたり弱化されたりしていきます。例えば、昔、NHK「みんなのうた」で放送していた歌の中に「あいつのハングライダー」という歌がありました。その歌詞の中では、 大空を自由に駆けめぐるのが あいつの ただ一つの夢さというように「自由」が歌われていました。確かに、日常社会の束縛に比べると、空を駆け巡っている時はいかにも自由であるように見えます。しかし現実には、ハングライダーが飛べる気象条件は限られていて「いつだって飛べる」わけではありませんし、滑空中も、高度や安定を保つための様々な操作はすべて、結果によってコントロールされています。「ハングライダーで飛ぶ」という枠組みの中での行動はそれぞれ、行動随伴性によって強化・弱化されており、さらに、種々の行動の中からハングライダーという行動機会を選択することもまた、強化されていると言えます。 よく、「予言破り」が議論されることがありますが、そもそも予言破りという行動は、予言の内容を知っていなければできません。その上で、「予言に反する行動をした」という結果が好子になっているだけですから、別段、自由意志の証拠にはなりません。 また、オペラント行動が自発されること自体、弁別刺激や確立操作の影響を受けています。それらの偶然的変動をすべて把握することはできないゆえ、行動の予測は常に確率的なレベルにとどまります。例えば、じゃんけんの最中、相手が次にグー、チョキ、パーのいずれを出すかということは、1/3より大きめの確率で予測できますが、100%の予測は不可能でしょう。しかしこれは、別段、自由意志で次の手を決定しているという証拠にはなりません。直前の勝ち負け、相手のしぐさ、ちょっと吹いた風、ちょっとした音などによって、変動しているだけのことです。私自身も手がけたこともありますが、人間以外の動物でも、かなりの勝率で「じゃんけん」型のゲームに勝つことができます。その際、説明概念としての「自由意志」は不要です。【少し古いですが、参考文献がこちらやこちらにあります。】 次回に続く |